正覚山
善光寺
天台宗
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- 〒835-0002 福岡県みやま市瀬高町小田2025-2 標高:54.4m 地図 GMAP 0944-62-4928
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歴史
大正2年(1913)、長野善光寺如来の筑前博多での出開帳のおり、別当大勧進副住職貴志僧正は永興寺の住職内田寂範師の請願をきき善光寺如来の別院建立の計画が進められた。 翌年、信州善光寺の分身如来を奉持して入仏式を挙行。 現在の建物は大正10年(1921)建立のもの。
昭和21年(1946)、妻の律子を腸結核で亡くした檀一雄が長男とともに半年余り身を寄せた所[1]。(以上、境内の案内板より)
ひとくちメモ
未参拝の為、未稿。
檀一雄、善光寺にて
妻リツ子死去後、檀一雄が身を寄せた善光寺
昭和21年(1946)7月、最愛の妻リツ子を亡くしたばかりの檀一雄は、4歳になった長男太郎と福岡県山門郡瀬高町朝日(現:みやま市瀬高町)の親戚の村山健治を訪ね、村山のはからいで書き物をするに静かな瀬高町平田の善光寺という山寺の住職宅2階の借間に身を寄せた。そこは疎開して間借りした人達が終戦で帰宅した後の空き部屋で、家具らしいものもない20畳ほどの空間を荒壁で仕切った部屋であった。
一雄は一週間に一度は山里から瀬高の繁華街に出向き、工場を散策したり商店で安い鰯など買い求めたりして太郎と二人で暮した。こうした生活が半年ほど続いた。この間、友人や師から、妻に対する追悼や文学的再起を促す手紙をもらい、再起して『リツ子・その愛』を書き、更に名作『真説石川五右衛門』の構想を練ったのもこの時期である。
同じく瀬高に疎開していた児童文学者与田準一の仲人で、上庄の山下酒造の山田賦の妹ヨソ子と再婚した。女優檀ふみは檀一雄の長女である。
昭和25年(1950)に刊行した『リツ子・その愛』『リツ子・その死』で本格的に文壇に復帰。翌26年(1951)には『長恨歌』と『真説石川五右衛門』で直木賞を受賞。昭和49年(1974)より博多湾に浮かぶ能古島で生活した。死後に日本文学大賞が決定した『火宅の人』の刊行を最後に、昭和51年(1976)九州大学病院において死去。
本堂下の一雄が間借りしていた建物は火災により無くなっているが、当時を偲ぶ『りつ子・その愛』執筆の記念碑が立てられている。
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