照曜山
光源寺
真宗大谷派
☆☆☆
伊藤氏参拝済
薩摩街道瀬高宿
- 住所・電話
- 〒835-0024 福岡県みやま市瀬高町下庄972 標高:11.6m 地図 GMAP 0944-63-2077
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歴史
境内の石製の案内板の内容をそのまま記す。
光源寺沿革
当光源寺は真宗大谷派に属し東本願寺の末寺である。 その開祖を祐閑と称した。 祐閑の家祖は室町時代末期豊後国大野郷の十時城主であった。
祐閑は戸次道雪公[1]立花宗茂公に仕え天正15年(1587)筑後柳川に赴いた。 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の後、 宗茂公柳川を去り程なく祐閑は浄土真宗に帰依して山門郷の瀬高下庄に庵居した。
第2世法順に西本願寺より光源寺の寺号を賜り慶長10年10月20日に木仏本尊を授与された。 その後大谷派へ転じて今日に至る。
第4世正吟は天文学にも造詣深くポルトガル人宣教師沢野忠庵と共に編集した南蛮運気論を著した。 肥前長崎にも開教し寛永14年(1637)に一寺を建立[2]した。
第8世深翁の代と第13世法隆の代に大火に逢い打撃を受けたが門信徒一丸となり再建に努め現本堂が再建された。 先代第17世護城は漢籍に長じ墨跡を残している。 後を受けた第18世寿徳は光源寺の充実発展に務めた。
伊藤氏メモ本堂は火災により約250年前に再建されたという歴史を感じるもの。現第19世。()
ひとくちメモ
銅板葺きの本堂の屋根は格調高い趣である。境内には鐘楼、納骨堂と思しき近代的な建物がみられる。 東隣りには瀬高大谷幼稚園がある。 門前の道は薩摩街道である。
地名の「下庄」は「しものしょう」と読む。
写真
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