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〒835-0003 福岡県みやま市瀬高町本吉1119-1   標高:156.8m 地図 GMAP 0944-63-7625  ホームページ
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歴史

伊藤氏メモ寺伝によると、唐から帰国途中の伝教大師最澄は、有明海東方の山に輝く一筋の光を見つけた。一羽の(きじ)の案内で山に入り、光の源である霊木の合歓木(ねむのき)に出会った。現在の本堂が建つ地である。大師は立木のままの合歓木に一丈六尺(4.8m)の千手観音像を刻んだ[1]。翌年の大同元年(806)に像を覆う堂宇が建立された。これが、清水寺の始まりと伝えられる。

中世の清水寺は、地元の支配者蒲池氏の外護で興隆したが、度重なる兵火で堂宇を焼失、衰微した。 天正15年(1587)、柳川城主となった立花宗茂は同18年(1590)に寺領30石を与え僧寂舜に寺を再興させた。このときから、本吉山清水寺が正式寺名となった。 江戸時代の元和7年(1621)に38石に加増。その後も柳川藩歴代藩主の篤い支援を受け、諸堂・伽藍を整備して寺域内外を充実させた。

参道の途中にある雪舟作と伝えられる本坊庭園は室町期の庭園様式を今に遺す貴重な名園で、国の名勝庭園指定を受けている(入園に際し庭園保存費300円要)。

なお、郷土玩具[きじ車]は、伝教大師をこの地に案内した雉にちなむ木製の玩具で、大師が唐から連れ帰った竹本王が竹本翁吉と名乗って瀬高に住み、きじ車を作ったと伝えられる(別説あり)。(以上『福岡の名刹・古刹55ケ寺』より)()

ひとくちメモ

清水寺は現在、九州内でお参りしたお寺の中で最大の敷地面積のお寺である。 ほぼ全ての施設をお参りすると、麓から往復おおよそ4km、高低差約150mである。 ひょっとすると、麓の参道口から西はまだまだ長い参道となっていたのではなかろうか? そこには清水寺ゆかりの遺跡・子院などがまだあるのかもしれない。

本坊庭園・本堂域・三重塔周辺の紅葉はみごとである。 三重塔からさらに登った所には茶店がありその先は展望所となっている。 瀬高町の街並みを一望できる。お見逃しなく。

清水寺本堂へは、麓から車で登るコースと、麓から表参道より徒歩で登るコースの2つがある。 作者は表参道よりお参りした。(ご注意:表参道コースは車では行けない。) ゆっくり散策して3時間くらいかかる。

以下にそのコースを順を追って記載する。

参道口付近眼鏡橋付近本坊庭園までの参道本坊庭園称名庵五百羅漢仁王門鳥居楼門本堂域三重塔乳父観音地主権現茶店

参道口付近

参道入口付近
参道入口付近 
鯉料理店
鯉料理店 

右に川を見て進む。 ほどなくすると鯉料理店がある。

このお店は今は営業はしていないようである。


眼鏡橋付近

石灯籠と鳥居
石灯籠と鳥居 
眼鏡橋
眼鏡橋 
眼鏡橋付近の参道(前方に清勝院が見える)
眼鏡橋付近の参道(前方に清勝院が見える) 
参道-眼鏡橋上より参道口に向って撮影
参道-眼鏡橋上より参道口に向って撮影 

巨大な石灯籠・鳥居がある。石灯籠・鳥居の銘は読み取れないが苔むしてかなりの年代物のようである。

この橋は、文久4年(1864)製。元はここより2kmほど北側の大塚地区を流れる返済川に架けられていたが河川改修によりこの地に移築されたという。 橋の裏側は鉄筋で補強されている。 橋を渡った所には、石仏が多数鎮座している。

すぐ先には清勝院が伽藍を構えている。


本坊庭園までの参道

参道の石畳
参道の石畳 
参道脇の石仏
参道脇の石仏 
竹林
竹林 
参道脇の石仏
参道脇の石仏 
参道の石畳
参道の石畳 
参道脇の石仏
参道脇の石仏 
参道脇の石仏
参道脇の石仏 
参道脇の石仏
参道脇の石仏 

曲がりくねった石畳の坂道である。

途中、所々に石仏が鎮座。

両サイドは雑木林、竹林などとなっている。

秋は所々紅葉も楽しめる。


本坊庭園

本坊庭園の前庭の紅葉
本坊庭園の前庭の紅葉 
庭園前の石段
庭園前の石段 
庭園の前庭の紅葉
庭園の前庭の紅葉 
庭園の前庭の紅葉
庭園の前庭の紅葉 
庭園の前庭の紅葉
庭園の前庭の紅葉 
庭園の前庭の紅葉
庭園の前庭の紅葉 
庭園の前庭の紅葉
庭園の前庭の紅葉 
庭園の前庭の紅葉
庭園の前庭の紅葉 
庭園の前庭の紅葉
庭園の前庭の紅葉 
庭園
庭園 
法華経千部逆修板石碑
法華経千部逆修板石碑 
魔羅観音
魔羅観音 
魔羅観音の御神体
魔羅観音の御神体 

庭園へは建屋の玄関から靴を脱いで入る。 建物内には仏壇があり、その脇の縁側から鑑賞する。 みごとである。 また、建物の前庭の紅葉もみごと。写真をごらんください。

庭園入口には、天正18年(1590)銘の「法華経千部逆修板石碑」がある。 表面の文字は鮮明に読み取れる。保存状態は良好である。

板碑のすぐ脇には魔羅観音(まらかんのん)(小授観音(こさずけかんのん))が鎮座している。 ねむの木製で男性根の形をしている。 五穀豊穣・子孫繁栄・家庭円満・無病息災のご利益があるという。


  • 称名庵
    称名庵 

称名庵

ここより次の五百羅漢までは舗装された道路となっている。 称名庵前には土産物店があるが、店は閉められていた。

Links③ に、慶長-元和年間(1596-1623)、柳川藩士の娘・林操(はやしみさお)の仇討ちの話が記されている。 林操は仇討ちの成就後、出家して清水山の麓に草庵をきざんだ。今日も称名庵の名で残っている旨の記事がある。

西念寺[真宗大谷派][福岡県みやま市]の脚注[2]参照。


五百羅漢

五百羅漢前の参道
五百羅漢前の参道 
五百羅漢前の参道
五百羅漢前の参道 
五百羅漢前の参道
五百羅漢前の参道 
五百羅漢前の参道(前方に仁王門が見える)
五百羅漢前の参道(前方に仁王門が見える) 
羅漢様達
羅漢様達 
羅漢様達
羅漢様達 
羅漢様達
羅漢様達 
羅漢様達
羅漢様達 
羅漢様達
羅漢様達 
羅漢様達
羅漢様達 
羅漢様達
羅漢様達 
羅漢様達
羅漢様達 

五百羅漢前の岩でごつごつした所は旧参道である。 昔の人々はこの道を通って本堂にお参りしたのであろう。 その道はすぐ上の仁王門につながっている。

案内板によれば文化(1804-1818)文政(1818-1830)の頃から大正年間(1912-1926)に奉納されたものという。 皆良いお顔をされている。

心無い(やから)によって首は全て打ち落とされてしまったという。 よく見るとほとんどの羅漢様の首には修理された跡がみられる。残念無念。


仁王門

仁王門
仁王門 

五百羅漢の先は仁王門である。 案内板によれば、延享3年(1746)柳川藩主・藩民によって寄進されたという。 仁王像の高さは2.4mという。

門内に安置されている仁王像は暗くてよく見えなかった。 ライトで照らすわけにもゆかず。残念である。

この先は鳥居まで、しばらく舗装された道路となっている。


鳥居

鳥居
鳥居 
鳥居
鳥居 

舗装された道路はここで終わり。 これからしばらく石畳を登る。ほどなくすれば、石段がありそこを登れば楼門である。


楼門

楼門手前の参道
楼門手前の参道 
楼門手前の参道
楼門手前の参道 
楼門手前の石段
楼門手前の石段 
楼門
楼門 
扁額
扁額 
楼門の先の石段
楼門の先の石段 
楼門-上から撮影
楼門-上から撮影 
楼門-上から撮影
楼門-上から撮影 
楼門
楼門 

案内板によれば、願主は柳川藩主立花貞則。延享2年(1745)建立。 建立当時は桧皮葺であったが、現在は銅板葺となっている。 階上には釈迦如来・文殊菩薩・持国天・広目天・増長天・多聞天像が安置されているという。

どっしりとした構え。すごい存在感である。 楼門の先はまた石段である。作者はこの辺で「まだかい?」とため息を吐く。 この石段を登ると"やっとこさ"の本堂にたどり着く。


本堂域

本堂の扁額
本堂の扁額 
本堂
本堂 
本堂
本堂 
阿弥陀堂の扁額
阿弥陀堂の扁額 
阿弥陀堂
阿弥陀堂 
なで仏堂
なで仏堂 
なで仏
なで仏 
本堂前の泉
本堂前の泉 
本堂右手の崖(多数の石仏がある)
本堂右手の崖(多数の石仏がある) 
巨大な百度石
巨大な百度石 
全景
全景 
記念館
記念館 
記念館
記念館 
本堂脇の巨大なきじ車
本堂脇の巨大なきじ車 

本堂域は平坦部となっている。

本堂を中心に向って右手に阿弥陀堂・記念館。 向って左手にはなで仏、その裏手は崖となっており多数の石仏がみられる。

本堂前は清水が湧く泉となっている。 記念館付近の紅葉はみごと。

なで仏様の手と膝をなでてきました。(笑)


三重塔

三重塔
三重塔 
三重塔-乳父観音を背にして撮影
三重塔-乳父観音を背にして撮影 
三重塔-乳父観音を背にして撮影
三重塔-乳父観音を背にして撮影 
三重塔-乳父観音を背にして撮影
三重塔-乳父観音を背にして撮影 

案内板によれば、文政5年(1822)柳川10代藩主立花鑑賢と領内住民の寄進により14年の歳月を費やして 天保7年(1836)に完成したという。 高さは27m。

近年、以前の原型をそのまま活かし、古材も再利用して補修され、現在のものは昭和41年11月のものという。

秋の紅葉とベストマッチである。


乳父(ちちぶ)観音

観音堂
観音堂 
観音堂脇の奉納された乳房の模型
観音堂脇の奉納された乳房の模型 
観音堂
観音堂 
奉納された絵馬
奉納された絵馬 
観音堂脇の石仏
観音堂脇の石仏 
遠景-地主権現より撮影
遠景-地主権現より撮影 

案内板の内容をそのまま記載する。

本吉山普門院清水寺の開祖 伝教大師の弟子円仁(慈覚大師)は、唐より帰朝の途次、 霊夢により、師僧、伝教大師の足跡をたずね、 世の子供達が健全に育つようにとの願いをこめて、 観音像を彫刻し、 嘉祥元年(808)堂宇を建立し供養せられたと伝えられる。

爾来「乳父観音」と親しみ呼ばれ乳不足に或は乳の病気に悩める女親達の篤い信仰にまもられながら今日に至っている。

お堂に奉納されている母子の像や布地の乳房等は御願成就のしるしである。

みやま市商工観光課

お堂脇には布地の乳房が多数奉納されている。 作者は初めて見た。驚きである。 お堂には大正期までの古い絵馬が多数奉納されている。


地主権現

地主権現
地主権現 
恵比寿神
恵比寿神 
恵比寿神
恵比寿神 

地主権現は乳父観音のすぐ上手に鎮座している。

その由緒などは作者はわからない。

祠前の恵比寿神は良いお顔をされておられる。


茶店

地主権現から茶店に向かう道
地主権現から茶店に向かう道 
茶店
茶店 
茶店奥の敷地
茶店奥の敷地 
茶店奥から眺める瀬高の眺望
茶店奥から眺める瀬高の眺望 
茶店付近の紅葉
茶店付近の紅葉 

茶店ではきじ車などもお土産に売られている。

茶店の奥は芝生の敷地となっており、お弁当を食べている家族連れなど多数みられる。

そこからは瀬高の町が一望できる。


関連ページ(※歴史的に過去に関連していた神仏施設他も含めています。必ずしも現在関連しているとは限りません。)

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