heritage 台嶺山玉泉院 宝聚寺(ほうじゅじ) 天台宗 行基 伊藤氏参拝済

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〒835-0024 福岡県みやま市瀬高町下庄925   標高:11.7m 地図 GMAP 0944-62-4711 
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歴史

伊藤氏メモ天台宗延暦寺末流。元正天皇の養老年間(712-723)に、僧行基が諸国巡行の折に開基した。

また、勅願によって行基に命じ諸国に談議所を建立させたときに、この地に壮大な談議所が新設された。明治維新の頃までは僧侶の説教を談議と言っており、当時は広大な説教所があったのであろう。今では地名となって残っている。

本尊の不動明尊は行基の自作である。また士像の弁財天弘法大師の自作であると伝えられている。延暦22年(803)大師入唐の折、天竺国五台の土で造られたものという。

往時は一大伽藍があったが中古以来度々の兵乱に遭い旧記・堂宇など皆焼失した。

慶長9年(1604)田中吉政よりの、また元和7年(1621)竹中采女よりの、寺領書出の古文書がそれぞれ残っている。寛永年中(1624-1644)豪湛が中興開山である。 3代豪閑は万治元年(1658)、寺内に閻魔堂を勧請した。(以上『瀬高町誌(昭和49年)』より) ()

伊藤氏メモ郷土史家の堤伝(つつみつたえ)氏によると「この寺は永く栄え、江戸時代には紺屋一切の権利を与えられ紺屋の総支配をしていた。今日では紺屋はないが、昔は着物は全て手製であったので、糸をつむぎ、それを紺屋で染め、織り上げて着物を作ったのである。したがって各家には木綿織機が必ずあって主婦が機を織っていたのである。その他にも、油船2隻があり、油の運送の賃金を寺の収入にした。」という。

また、以下は民話による。談議所(当地の地名)の浜は島原あたりからの海産物の船で賑わい商人の集落として栄えた。寺の北側には矢部川に注ぐ川があり、船が入り荷の積み下ろしをしていた。運河を寺前まで引き込んで、積出しの便と港の管理・指導などを行ってきた寺でもある。寺前の運河に架かっていた眼鏡橋が現在でも残っている。江戸期には寺の周りは湿地帯でレンコン畑であった。(以上Links① より)()

ひとくちメモ

未参拝の為、未稿。

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