heritage 金光明山(こんこうみょうさん) 豊前國分寺(ぶぜんこくぶんじ) [豊前国分寺] 高野山真言宗 ★☆☆ 火渡り 三重塔 国分寺 三重塔まつり 九州四十九院薬師霊場第8番札所 豊前国三十三観音霊場第21番札所

住所・電話
〒824-0123 福岡県京都郡みやこ町国分280番地   標高:45.9m 地図 GMAP 0930-33-3967 
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歴史

境内の案内板の内容をそのまま記載する。

史跡 豊前国分寺

国分寺は奈良時代に聖武天皇の勅願(741)により、 全国の国毎に設置された国立寺院です。 僧寺と尼寺の二院制がとられましたが、 当時各地で病気が流行し、不作が続くなかで、仏の力にすがって平安な国家にしていきたいという願いがこめられていました。

豊前国では豊津に国府がおかれていたことから、この錦原大地の東端に寺地が選定され、 国府の役人であった国司が中心になって建立が進められました。 記録からの推定では、完成まで15年ほどの年月を費やしたことがうかがえます。 ここは僧寺の跡ですが、尼寺はここから真東に200メートルほど離れた丘の上に建てられていました。 僧寺の伽藍は南門・中門・塔・金堂・講堂・鐘楼・回廊などが南を正面にして、方2町(216m四方)の寺域の中に配置されました。 尼寺はふつう塔が省略され、規模もやや縮小された形といいます。

国立寺院であるため、両院とも国家から手厚い保護を受け、 僧尼の生活や寺の維持には田や封戸が与えられました。 そして当時の先端技術の粋を結集して造営された国分寺は、 建物の先進性はもとより仏教の教義を説き広める意味から、 その地方の文化的な役割も果たしました。

しかしこの国分寺も、奈良時代の後半ごろからの律令政治の崩潰や新興の天台・真言密教におされて存在意義もうすめられ、 早くも衰退の一途をたどり始めました。 このような情勢にあっても豊前国分寺はどうにかその命脈を保ち続けていたらしく、 天正年間(1573-1591)に大友宗麟の兵火にあって、 すべての伽藍が焼失したと伝えられています。

江戸時代になって僧の英賢・円慶によって復興が始まり、 さらに尊応・応忍・等汰に引き継がれて、 元禄年間(1688-1703)には塔を除く主要な建物がほぼ完成したと伝えます。

明治時代に宮本孝梁師は塔の建立を発願され、 多くの人々の寄進を得て、明治28年(1895)三重塔の完成をみました。 塔は層塔と多宝塔を折衷した様式をもち、 昭和32年(1957)には県の文化財の指定をうけました。 その後老朽化の進んだ塔は、昭和60年から2年にわたる解体修理で再び明治の建立当時の姿によみがえりました。

寺域は昭和51年に国の史跡に指定されましたが、 豊津町が史跡公園として整備する際の発掘調査では、 創建当時の講堂跡をはじめ軒丸瓦・軒平瓦・塼・陶磁器片などが出土しています。

平成3年(1991)5月 豊津町

ひとくちメモ

豊前國分寺は田園地帯の集落の中に伽藍を構えている。 三重塔、鐘楼門、本堂など枯れた雰囲気の境内である。 どこか昔懐かしい雰囲気を味わえる。

本堂裏手には講堂跡があり、芝生の広場となっている。 この芝生に寝転がり、ゆっくり在りし日の講堂を想像するのも良い。

山門脇には案内所があり、史跡での出土物などが展示されているようであったが、 あいにく工事中で観ることができなかった。 尼寺跡も見逃してしまった。

福岡市からはかなり遠方であるが、また訪れてじっくり散策したい寺院の一つである。

イベント情報(今日から1年間)

○主催者などに事前に確認の上、参加下さい○

日時内容備考状態
2023-12-31()〜2024-01-01(月)除夜の鐘23:45分頃から確定

写真

  • 加持祈祷道場
    加持祈祷道場 
  • 鐘楼門 - 本堂を背にして撮影
    鐘楼門 - 本堂を背にして撮影 
  • 参道
    参道 
  • 講堂跡 - 本堂裏手
    講堂跡 - 本堂裏手 
  • 巨大な修行大師
    巨大な修行大師 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 鐘楼
    鐘楼 
  • 配置図
    配置図 

三重塔について

三重塔(左)と本堂
三重塔(左)と本堂 

伊藤氏メモ現在の三重塔について『福岡の古刹・名刹55ケ寺』に次のような記載がある。

豊前國分寺のシンボルである壮麗な三重塔は、[明治記念大宝塔]とも言われる。 高さ23.5m、心柱には推定樹齢200年の杉材が使用されている。

宮本孝梁19世住職[1]が塔の再建を発願して私財を投げ打ち、費用の不足分は地元の官民あげての厚い支援で建立された塔である。

建築したのは地元で名士との評判高い大工棟梁緒方義高氏である。 宮本住職から依頼を受けた緒方棟梁は独力で社寺建築の研究からはじめて精魂を傾け、10年の歳月をかけて建立、その責を果たした。しかし、完成直前に急逝。現在、境内に顕彰墓碑が残っている。()


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脚注