仏旗 円明山 徳雲寺(とくうんじ) [徳雲禅寺] 臨済宗妙心寺派  TOKUUNJI ZEN TEMPLE 久留米寺町17寺(14) 伊藤氏参拝済

  • 本堂
    本堂 
住所・電話
〒830-0014 福岡県久留米市寺町66 標高:15.4m MAP GMAP 0942-32-8583 
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歴史

伊藤氏メモ元和9年1623有馬豊氏公により草創。 開山は回厳玄登和尚(甲斐国恵林寺快川和尚の高弟)。 宝暦4年1754の農民一揆の際、藩主頼徸に人別銀反対の上申をした虎堂和尚が有名。 本堂は昭和53年の再建。久留米絣(くるめがすり)の創始者である井上伝の墓碑がある。(門前の案内板より)()

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ひとくちメモ

全体白色の本堂。珍しいデザインである。本堂前は多数のお茶の木が整然と植えられている。 臨済宗の始祖栄西にちなんだものであろう。 松の植え込みもよく手入れされていて美しい。

伊藤氏メモ本堂の流線型の屋根は白亜のコンクリートで出来ており、堂前面はガラス張り。文化施設のような外観のシャレた本堂である。()

写真

  • 山門
    山門 
  • 境内風景(正面の松の木は手入れが行き届いている) - 本堂を背にして撮影
    境内風景(正面の松の木は手入れが行き届いている) - 本堂を背にして撮影 
  • 境内の石仏群
    境内の石仏群 
  • 境内の観音像
    境内の観音像 
  • お茶の木
    お茶の木 


歴史参考資料

伊藤氏メモ

宝暦一揆1754は、久留米藩7代藩主有馬賴徸(ありまよりゆき)のときに起きた。 この一揆は参加人員10万余人、空前の規模で日本史に残る一揆となった。 今度も藩財政の窮乏を補おうとした新たな増税が一揆を引き起こした原因であった。

賴徸が襲封した享保14年1729は大旱魃があり、17,18年には餓死者11198人を出して後世「享保の飢饉」として知られる大飢饉があった。

今日、賴徸は数学の大家として知られ、学者殿様として崇敬を受けている。数学に関する多数の著書があるぐらい頭脳明晰な賴徸は、藩財政の立て直しも家臣任せにしなかったが、この頃の久留米藩は大阪や江戸の両替商からの借銀もできない状態で財政はどん底であった。しかし、賴徸の財政再建は新たな財源を産み出すための殖産振興ではなく、藩士や領民に対する新たな上米や増税でしかなく、さらなる苛税でしかなかった。このため、徴税は取れる名目があれば何でも取った。領民は、から雑巾を絞り上げるような過酷な徴税に苦しめられた。なかでも領民を憤激させたのは人別銀であった。藩士及び陪臣・その召使、農工商、僧侶、神官、浪人にいたるまで人別銀を賦課するというものであった。

従来、一揆といえば農民一揆であったが、今度は違った。

波乱の火の手は寺町から上がった。徳雲寺の虎堂和尚が法事のなかで人別銀の非を鳴らしたのが発端であった。

農村ではまず生葉郡の農民が立ち上がり、近隣に広がった。生葉・竹野・山本郡の農民3万人余が生葉の若宮宮に集結した。上妻・下妻・三潴の三郡の農民は吉田山へ集結した。その数は10万人余に及び、空前の規模の一揆になった。

宝暦一揆の特徴は城下の寺町に発したように、農民だけでなく、困窮した町人や地下浪人も叛乱したことにある。

城下でも札差や富裕な商家が一揆の町人に襲われている。農村や街道筋では大庄屋・庄屋・商人の屋敷が打ち壊され、破壊は全藩に及んだ。武器も鍬や鎌、竹槍などだけでなく、一揆に加わった地下浪人たちが一揆を鎮圧すると藩庁に持ちかけ藩庁から借り出した鉄砲18000挺、槍6000などで武装し、鎮圧に乗り出した城兵と交戦したとある。

この戦闘で藩側は完敗した。そのため藩は人別銀の廃止を掲げ、一揆側と交渉にあたったが、一揆側の強硬さを恐れてほうほうの体で逃げ帰る有様であった。その後、人別銀の廃止と増税の緩和など、一揆側の要求を聞き入れた上、一揆の農民も許すとして、2か月余に亘った争乱を治めた。 

(『久留米藩 (シリーズ藩物語) 』より)()