仏旗 紫雲山 舎月庵(しゃげつあん) [陣原観音] 浄土宗  SYAGETSU-AN TEMPLE 北九州西国三十三観音霊場第20番札所

  • 観音堂
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住所
福岡県北九州市八幡西区陣原4-9-21 標高:5.4m MAP GMAP  
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歴史

門前の案内板の内容を下に記す。

黒田二十四騎の一人、黒崎城主井上周防之房公(2萬石)は、 元和元年1615徳川2代将軍秀忠による一国一城令によって黒崎城が廃城となった後、 陣原東屋敷(現在地)に居を構えられた。

或る時、母君が病魔におかされ、 あらゆる手当を施されたが効目がないので、 一心に神佛に祈願されたところ、 観世音菩薩が夢の中に現れ、まもなく平癒した。 そこで之房公は、その加護に報いるため、都の佛師、春日に命じて観世音菩薩を謹刻させ、 庵を創立された。 そして紫雲山陣原観音舎月庵と稱された。

守護神
創立 寛永6年1629[1]7月17日 井上周防之房公
開山 弘善寺住職、信誉
本尊 十一面観音菩薩
寺内史跡
念佛塚 塚の下に経筒を埋葬
石仏  88体
三界萬霊 弘法大師
名所
慈姑池(くわいいけ) 井上周防之房公の庭園の一部(現在の病院駐車場付近)
藤棚  明治から昭和10年代後半まで、開花の時期には大変な賑をしていた。
行事・祭事
花祭り 5月8日
千灯明 8月17日
施餓鬼 8月18日
十夜  12月初旬

之房は寛永11年1634、この地で81年の長寿を全うしたという。 ちなみに、同僚、栗山利安(善助)1550-1531享年81歳、母里友信(太兵衛)1556-1615享年59歳。 彼の墓所は遠賀郡龍昌寺にあり、 妻の墓所はこの地より南方500mほどの穴生弘善寺にある。

北九州の寺めぐり 』によれば、舎月庵は現在穴生弘善寺の飛び地境内となっており、法要などは弘善寺住職が務めているという。

参考:『筑前國続風土記拾遺』

ひとくちメモ

舎月庵は一見すると、一般の民家風の造りとなっている。 石段を登って境内に入ると、先ず右手の多数の石仏が目につく。 まっすぐ進むと、弘法大師像が3体あり、その右手に観音堂がある。

門前からははるか東南方向に皿倉・帆柱の両嶺を望むことができる。 之房は晩年この景色を眺めながら余生を過ごしたのであろう。

現在はこの地から南方150m程の所は国道3号線が東西に走り、北部九州の交通の要衝である。 之房が余生を過ごした頃(江戸初期)も、黒崎宿から旗頭神社付近を経由し現在の中間市役所付近で底井野往還と合流する街道が通っていたようである。 この道は長崎街道のバイパスの役割を持っていたものと思われる。 その街道との関係は不明であるが、境内裏手は幅2m程の道が通っている。

写真

  • 遠景(写真中央の石段が山門)
    遠景(写真中央の石段が山門) 
  • 観音堂の扁額
    観音堂の扁額 
  • 念仏塚と三界萬霊塔
    念仏塚と三界萬霊塔 
  • 観音堂前の弘法大師像
    観音堂前の弘法大師像 
  • 観音堂前の石仏郡
    観音堂前の石仏郡 
  • 駐車場の石仏群
    駐車場の石仏群 
  • 境内裏手の狭い幅の道
    境内裏手の狭い幅の道 
  • 門前の風景(前方の山は皿倉・帆柱山)
    門前の風景(前方の山は皿倉・帆柱山) 


筑前國続風土記拾遺

『筑前國続風土記拾遺』巻之34 遠賀郡 利 陣原村の項に下記の記事がみられる。

(前略) 元和元年1615台命に依て黒崎城を毀し、 後井上道柏爰に宅を構て住し80餘歳にて此地にて卒す。 今に至りて本町 裏町 袋町 福岡道 新屋敷等の字あるは、皆井上氏の宅址なり。 道柏の子半右衛門、半衛門2人の居を東屋敷 西屋敷と云。 今村民の宅地となれり。 其邉に池有。 花池(くわいけ)と云。 井上氏家人の内、占部 谷口 末松 伊藤 原田 大野等の氏なる子孫農民となりて今に此村に住す。

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