青龍山観音院
清水寺
[小笠原藩祈祷寺・清水観音]
真言宗
★☆☆
紅葉
参道の石段
伊藤氏参拝済
北九州西国三十三観音霊場第11番札所
- 住所・電話
- 〒803-0841 福岡県北九州市小倉北区清水4丁目7-14 標高:22.4m 地図 GMAP 093-561-2541
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歴史
本堂前に掲げられた案内板の内容を下に記す。
清水かんのん縁起
聖武天皇(701-755)勅願所 青龍山観音院清水寺は古来豊前國企救の御堂と称し 大宝年間(701-704)、観任僧正の開基にして慶長3年(1598)細川忠興公 小倉城造営に当り城の裏鬼門よけ祈祷寺として堂宇を再建し 寛永9年(1632)小笠原忠真公城主となるや公も亦室永貞院様と共に信仰せられ代々寺禄を賜わり 明治に至る。
遺跡としては、細川公の築城時の石垣、方円流柔道開祖方円斉及び書家樽原秀近の碑、 元和・文化・嘉永の経塚、最中庵我山の句碑等ありてよく千古の歴史を保ちて現在に至る。
「裏鬼門」とは南西(坤)の方角で、確かに清水寺の位置は小倉城からみて南西の方角である。 それでは(表)鬼門はというと小倉城より2kmほど東北(艮)に延命寺という地名がある。 そこには現在黄檗宗の延命寺が存在する。
ひとくちメモ
みぞれ降る中のお参りでカメラが濡れるのを気にしながら境内を散策していると、 住職の奥様が出てこられ寒い中、境内の案内をしてくださった。 本堂にも写真撮影しないことを条件に上がらせて頂いた。 本尊の千手観音像は秘仏とのことで拝めなかったが、写真が本堂の壁に掲示されており拝むことができた。 感謝感謝。
本堂を背にして右手には古い鳥居があり、その前が清水寺最大のパワースポットとのこと。 その鳥居をくぐって石段を上り墓地の中を右手に進むと金毘羅社が鎮座している。 ちょうどイチョウの葉が地面に敷き詰められ綺麗であった。
清水寺では祈祷も行われ、祈願成就の方々のお礼参りが絶えないという。
本堂に向かう参道は3つある。 いずれの参道も弁天池がその始まりである。 向って左手は舗装されている道。向って右手にも石段の道。 一番古い参道は中央の道とのこと。 参道の石段は苔むしておりかなりの歴史を感じるものとなっており、案内板に記載されたものと思われる 小倉城築城時の石垣なども見られる。
伊藤氏メモ参道口から、手摺りの設けられた70段ほどのセメント段を進むと本堂境内域に入る。
本堂左手、鳥居の横に、周りに小仏が並ぶ円筒状のコンクリート造建屋がある。中には、河内ダム(八幡東区河内)が建設される際に当寺へ移された石像等が安置されている。河内ダムは、官営八幡製鉄所の鉄鋼増産に対応するための工業用水確保を目的として建設されたダムであり、現在でも日本製鉄㈱が管理を行う民間企業所有ダムである。(大正8年(1919)着工、昭和2年(1927)竣工)
本堂右脇に下へ向かう旧参道がある。この旧参道を途中まで下りていくと、百度石・石垣・旅賓之墓などを見ることができる。旅賓之墓は、大阪の実業家・橋本豊次郎(1888-1937)が、亡くなった行路病者の供養の碑として、大正12年(1922)旧小倉市に寄進したものである。[旅賓]とは、無名の行き倒れの人でも、小倉に来た以上は旅の客である賓客として弔うのが礼儀であるという考えから、自ら名付けたものである。豊次郎は、北九州の文化サロンといわれた櫓山荘の所有者で、北九州の文化運動を援助した。夫人は女流俳人の橋本多佳子である。豊次郎は、昭和12年(1937)大阪で亡くなったが、遺言によりここに分骨されている。(参道口の「案内板」より)
松本清張は現在の清水小学校(旧:板櫃尋常高等小学校)の卒業である。小学校から現在の国道3号線を挟んで南西側に当寺があり、『骨壺の風景』には「清水観音堂というのが山側にあって、小学校から近いので放課後よく遊びにいったものだ」と記されている。()
イベント情報(今日から1年間)
○主催者などに事前に確認の上、参加下さい○
日時 | 内容 | 備考 | 状態 |
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2023-12-31(日)〜2024-01-01(月) | 除夜の鐘 | 詳細はお寺に お問い合わせください。 | 確定 |
写真
不動明王(本堂向って右手) 鐘楼 梵鐘 小笠原家の家紋「三階菱」の幕 歓喜天堂 毘沙門堂へ向かう鳥居 毘沙門堂へ向かう鳥居-石段の上から撮影 毘沙門堂 境内風景-本堂を背にして撮影 経塚か? 境内の石仏 境内の石仏 経塚か? 参道の石段 石段下の百度石 参道の石段 参道脇の石垣
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