heritage 広寿山(こうじゅざん) 福聚寺(ふくじゅじ) [福聚禅寺] 黄檗宗 ★★★ 開梆 庭園の美 即非如一 庭園は雪舟が作庭した伝承あり 九州四十九院薬師霊場第6番札所

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〒802-0025 福岡県北九州市小倉北区寿山町6-7   標高:38.4m 地図 GMAP 093-541-2270 
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歴史

山門前の案内板の内容をそのまま記す。

(県指定文化財 史跡)広寿山 福聚寺[1][2](昭和44年5月1日指定)

寛文5年(1665)、小倉小笠原の初代藩主小笠原忠真(おがさわらただざね)が菩提寺として創建し、 中国僧の即非如一(そくひにょいち)[3]が開山した黄檗宗の名刹です。

2代藩主、忠雄(ただたか)の宝永7年(1679)、寺地を改め諸堂を造営しました。 寺領は寛文9年(1669)以降300石でしたが、享保元年(1716)さらに100石を加増されました。[4]

慶応2年(1866)、 長州との戦いで諸堂の大半を消失しましたが、中国風の建築様式を伝える仏殿(通称本堂 享和2年(1802)再建)をはじめ不二門(ふじもん)鐘楼など、 なお昔日の面影をとどめています。

境内には初代忠真、同婦人の永貞院(えいていいん)、2代忠雄、8代忠嘉(ただよし)、9代忠幹(ただよし)の墓所ほか、 開祖即非、2代法雲(ほううん)の墓があります。 さらに放生池(ほうじょういけ)座禅石などが樹林の中に点在して、自然の景観と歴史的環境がよく調和しています。

北九州市教育委員会

参考:福聚寺と食文化

ひとくちメモ

福聚寺は足立山の山裾に伽藍を構え、広い境内には中国風の建物が多く、黄檗宗のお寺の特徴をよく表している。 仏殿脇に掛けられた巨大な開梆(かいばん)は見ものである。 その他、境内には各種の建物が多数ある。下部の写真をご覧ください。

写真

  • 山門の扁額
    山門の扁額 
  • 境内風景 - 正面は竜華観音
    境内風景 - 正面は竜華観音 
  • 不二門
    不二門 
  • 不二門の額(表)
    不二門の額(表) 
  • 不二門の扁額(裏)
    不二門の扁額(裏) 
  • 鐘楼
    鐘楼 
  • 寳所 - 小笠原藩の家紋が見える。
    寳所 - 小笠原藩の家紋が見える。 
  • 寳所前の塀 - 廃瓦で作られている。
    寳所前の塀 - 廃瓦で作られている。 
  • 仏殿右裏手の門
    仏殿右裏手の門 
  • 仏殿右裏手の門の扁額
    仏殿右裏手の門の扁額 
  • 仏殿右裏手の堂宇
    仏殿右裏手の堂宇 
  • 仏殿
    仏殿 
  • 仏殿の開梆と作者
    仏殿の開梆と作者 
  • 仏殿と作者の仲間
    仏殿と作者の仲間 
  • 仏殿と作者の仲間たち
    仏殿と作者の仲間たち 

福聚寺と食文化 --- 唐饅頭・豆腐乾

伊藤氏メモ天明・寛政期(1781-1801)の『小倉商家由緒書』によれば、天明・寛政年間に、米町にあった宇治屋は、 もともと松山藩主松平定勝の家来戸倉氏が元和年間(1615-1624)に小倉に移住して菓子師になったものという。 その後、小笠原氏の小倉入封後は代々「御菓子御用」を務めた。特に2代目は、広寿山福聚寺の2代住持法雲和尚の指図で「唐饅頭」を藩主忠雄の福聚寺での祈祷の際に献上し、「御珍味御逢」との仰せを蒙ったことから、その後も江戸への献上供物を仰せ付かったという。 「唐饅頭」は黄檗饅頭ともいい、餡を小麦粉・卵・砂糖で作ったカステラ生地で包んだ焼饅頭である。 一口香や月餅に近い菓子であり、今日でも四国などに郷土菓子として伝わっている。 法雲和尚は、明末清初の中国より渡来し広寿山福聚寺を開基した黄檗僧即非(1616-1671)の愛弟子である。

即非は黄檗宗とともに我が国に伝えられた煎茶の愛好家であるとともに食通でもあった。 特に出身地の名産である茘枝(ライチ)に目がなかったという。

ちなみに、即非自身が小倉に伝えた黄檗宗の食文化としては、豆腐乾(即非豆腐)があり、明治の末頃まで中津口橋のたもとに伝来の店があったという。(『砂糖の通った道《菓子から見た社会史》』より) ()

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脚注