heritage 白山神社(はくさんじんじゃ) [白山権現社] 神仏習合

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〒811-2501 福岡県糟屋郡久山町久原188   標高:71.7m 地図 GMAP
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歴史

創建は天平年間(729-749)とされる(Links① より)。

はじめは白山の山頂付近にあり、社僧の寺の総号を白山頭光寺泉盛院と号した。天台宗であった。 僧坊は本谷に100坊、、西谷に100坊、山王に50坊、別所に100坊。合せて350坊あったという。 年代は定かではないが、些細なこと[1]で本谷・西谷の僧坊と別所の僧坊が論争になり、さらにはお互いに火をはなち本谷・西谷・別所はことごとく炎上・絶滅。 天正14年(1586)、山王50坊は薩摩軍によって焼き払われ1宇も残さず亡びた。 その後、再興されることはなかった。 村人は頭光寺を昔の印に再興。白山の祭りを行っていた。(『筑前國続風土記』巻之18 糟屋郡 表 久原村白山権現者の項より)

大正9年(1920)、現在の地に拝殿が建立され、昭和2年(1927)、本殿が建立された。 現在も山内には坊跡や堂宇の跡が随所に残り、当時の繁栄の跡をよく残している。 毎年11月には大祭が行われ、大晦日から元旦には獅子舞が奉納される。(Links① より)

参考:『筑前國続風土記附録』

ひとくちメモ

未参拝の為、未稿。

『筑前國続風土記附録』巻之35 表糟屋郡 下 久原村の項

井野大神宮・白山神社図(手前が井野大神宮、左上隅に白山神社) - 『筑前國続風土記附録』巻之35表糟屋郡下より引用
井野大神宮・白山神社図(手前が井野大神宮、左上隅に白山神社) - 『筑前國続風土記附録』巻之35表糟屋郡下より引用 

白山権現社(神殿3尺4尺拝殿1間半1間・石鳥居1基・祭礼11月初卯日・宮司頭光寺)

祭る所、加州白山と同神なり。 此辺荊棘(いばら)の中に高1間横5尺余の大岩あり。 是を観法石といふ。 古しへ源通と云僧観法せし石とそ。 竈門山山伏修法の所也。

○兒か淵(スラタニグチ) 本編(『筑前國続風土記』)に見えたり。

『筑前國続風土記』巻之18 糟屋郡 表 久原村白山権現者の項

本谷・西谷・別所の僧坊の消失の顛末は『筑前國続風土記』では下記のように記している。

此僧坊の亡びし濫觴(らんしょう)[2](たずね)るに、いつの頃にや有けん。

本谷の(ちご)、秋の頃、(たちばな)[3]の多く実のりを(ほめ)ける。 別所の僧徒聞て、花などの多きをほめばこそ風流なるべきに、くだものゝ多きをほむる事、卑猍なる兒かなとて、つどひて是を(あざけ)り笑ひける。 彼兒何心なく誉し事を、多くの人にわらはれ、其恥辱にあひたりと、ふかく思いしにや、終に前なる谷川のふかき淵にみを投てこそ死けれ。 其所を今に到て兒が淵といふ、

是より事起り、本谷の僧徒大に怒りて、大勢を催しけるに、西谷100坊も与力し、別所と闘論に及て、たがひに火を放ち戦いける故、別所・本谷・西谷の僧坊(ことごと)く炎上して絶滅せり。

(しか)れども、山王50坊のみ残りしを、天正14年薩摩勢此山に取縣(とりかかり)、焼払ひける故、50坊1宇もなく亡びぬ。 其後此寺再興なし。

山王50坊が島津勢に焼き討ちされたのはそれなりに理解できるが、本谷・西谷と別所の喧嘩・全滅の顛末は上の記事が事実としても、 こんな些細なことでお互いを焼き払うような事は起こるものだろうか?「兒」の事件は単なるきっかけでもっと深い理由があったのだろう。


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脚注