志登神社
[照光寺跡]
神道
☆☆☆
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- 〒819-1106 福岡県糸島市志登82 標高:5.8m 地図 GMAP ホームページ
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歴史
祭神は豊玉姫命。相殿、和多津見神・彦火火で見尊・息長帯姫命・武内宿祢命。
古くは、延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に19式内社の一社として糸島で唯一記載せられた式内小社であった。 此の地は昔は入江が東西から入り込み、伊都国の港を形成していたと考えられている。
天正9年(1581)11月に高祖山城の城主であった原田隆種により再建され、高祖神社の御祭神である息長帯姫命と武内宿禰命の御神体を分霊し、潤村から西太郎丸村まで12丁歩の神田が寄附された。 これ以前の資料は博多東長寺が元弘年間(1331-1334)、戦禍により焼失の為記録が残っていない。
豊臣秀吉の九州平定(1586-1587)の時、神領を悉く没収され神官社僧も皆農夫となり廃絶の危機に至る。
元禄3年(1690)黒田光之(黒田藩3代)が再建。 享保2年(1717)黒田宣正(同5代)が再建。 明治30年(1897)代、可也山地震にて倒壊、その後再建。 平成27年(2015)、火災焼失後再建。 現在に至る。
神宮寺として照光寺が建てられ、明治初期まで宮司坊を務めていた。 照光寺開山の権僧都阿闍梨法印□永和尚は当社の初代大宮司の弟。 東長寺で空海と共に修行した友と伝わる。 大同元年(806)東長寺を創建した空海はこの照光寺を訪ねたと伝わる。 元弘年間(1331-1334)、兵火に焼かれた東長寺は一時、照光寺に逃れ、3年後に再建された。 この由来より、当社は空海所縁の神社として知られている。(以上 ホームページ・Links① ・門前の石碑より)
当社の古図の絵解きを当ページの下部に掲示する。
ひとくちメモ
当社の周辺には広大な田園風景が広がっている。 平成27年(2015)再建と言われる社殿は、木の香だだようほど新しい。
社殿の裏手に横たわる2本ご神木は台風で倒れて横たわっているが、今尚樹齢盛んである。 神池の浮島に小さな表面の侵食がひどい地蔵菩薩像がある。この尊像が当社内で唯一の「仏」に関わるものである。
境内に太陽観測石がある。伊都国時代の祈祷師が太陽を測るために用いた石とされる。 冬至の日には夕日が鳥居から社殿を結ぶ参道に一直線に差し込むという。(Links① より)
写真
火災焼失前の拝殿の鬼瓦(上)と鞘殿鬼瓦(上の紋は原田氏の家紋か?・下の藤巴は黒田氏の家紋か?) -拝殿裏手 地蔵菩薩(当社唯一の「仏」に関連するもの) - 神池内の浮島 拝殿 ご神木(倒れても樹勢盛ん) 看板 「馬の井・太陽観測石」 弁天堂 - 神池内の浮島 庚申塔 - 神池内の浮島 庚申塔(寛永ニ年(1625)三月吉日銘) - 神池内の浮島 石灯籠と大石大神 紅白の花が咲いている梅 - 社殿前 紅白の花が咲いている梅(拡大) - 社殿前
『筑前國続風土記附録』挿絵の絵解き
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右のモノクロの画像は『筑前國続風土記附録』巻之45 志摩郡 下に掲載されており当社の古図である。 志登神社のホームページに掲載されいるものが格段と画質が良いのでそれを参照されたし。
同書には志登神社の記事も掲載されている。(当ページの最下部に全文掲示する。)
ここでは、この古図の絵解きをしてみようと思う。 古図で確認できる場所の名毎に解説する。
- ①照光寺跡
当場所は古図及び、金千寺住職から伺った地元に伝わる場所を元に推定した。
現地は畑地・空き地となっており、礎石などの痕跡は確認できない。
- ②弁才天
志登神社境内の神池の浮島に現存。
- ③拝松(古図でカガミカケマツのことと思われる)
『附録』に「神社の西5町斗ばかり和泉川の傍に古松あり。拝松といふ 。」とあるが、畑地となっており確認できない。
- ④岩神(イワガミ)
『附録』に「神社の巽(東南)田の中に松1株あり。 是を岩神といふ。 」とある。
ほぼこの位置に一辺が5mほどの正方形の区画が麦畑の中にある。 そこには「古跡岩鏡」と記された石碑と、その後に平らな岩(幅1mほど)が地面に半分埋まっている。 この岩のことでほぼ間違い無いと思われる。
現在は「松」ではなく「クロガネモチ」と置き換わっている。
石碑の「岩鏡」と古図の「イワガミ」・『附録』の「岩神」と呼び名が微妙に相違しているのが少し気になるが。。。
- ⑤小宮
『附録』に「乾(北西)1町斗ばかり田の中に森あり。小宮といふ。」とある。現存。
- ⑥細語の橋(ササヤキバシ)
『附録』に「細語の橋の跡、本社の巽(東南)30町ボにあり。」とある。
古図とは方向・距離大きく矛盾する。
これを無視して、古図の位置関係から推定して照光寺跡と志登神社のほぼ中間地点の水路に架けられている橋附近と推定する。
『筑前國続風土記附録』巻之45 志摩郡 下 志登村の項
○ 志登神社(神殿方2間半・拝殿2間3間・石鳥居1基・祭礼9月7日・奉祀真言宗照光寺)
祭る所豊玉姫命・神功皇后・高良明神・高祖明神4座也。 年毎に5月29日より6月2日まで近郷の農民苗をたつさへて詣る事あり。苗護滋(ノウコジ)の祭といふ。
社内に大神宮・若宮明神・祇園神・辨財天堂(神池の中島にあり)・観音堂・浅草観音堂あり。
又神社の西5町斗和泉川の傍に古松あり。拝松といふ 。行人遥拝せり。 ゆへに此名ありとそ。 昔の木は枯て今の松ハ植継たる也。
神社の巽[1]田の中に松1株あり。 是を岩神といふ。 神名詳ならす。
又乾[2]1町斗田の中に森あり。小宮といふ。
○当社神領1町6反、元禄の年(1688-1704)、光之公寄附し給ふ。
○細語の橋跡 本社の巽[1]30町ボにあり。 光之公神社を造立し給ふ時、社内に移せり。(今神池に架せり。長さ8尺巾4尺5寸)
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