大用山
小蔵寺跡
[熊野神社・白糸観音堂]
真言宗
☆☆☆
清賀
熊野神社
伊藤氏参拝済
光明新四国霊場第13番
歴史
清賀上人が開いた怡土七ヶ寺のうちの一つである小蔵寺は、熊野神社境内にあった。江戸時代に入り衰退、明治の廃仏毀釈によって廃寺同然となっていた。 現在では熊野神社社殿に向かって右手の観音堂(建物は近年建築(改築?)されたもの)があるのみである。
観音堂内には室町時代の制作と思われる一対一具の木造観世音菩薩立像と木造勢至菩薩(寸法は目測150cmほどか?)、木造如来形立像(寸法は目測30cmほどか?)、江戸時代の阿弥陀如来坐像(寸法は目測50cmほどか?)などが安置されている。(各尊像の制作年代は『背振山系の山岳霊場遺跡』資料集によった)
小蔵寺は昭和62年(1987)ここより道なりに2kmほど登った所に再建された。(小蔵山 小蔵寺[白糸滝観音]参照のこと。)
当寺の山号は糸島郡誌では「大用山」、『背振山系の山岳霊場遺跡』資料集では「小倉山」となっている。
霊場額「光明新四国 第十三番 本尊 観世音■ 長糸村内」あり。
ひとくちメモ
小蔵寺跡のある白糸集落の西側には川付川が流れている。この川と付かず離れずの県道12号線をここから道なりに2.5kmほど登れば、白糸の滝・小蔵山 小蔵寺[白糸滝観音]がある。
県道12号線沿いに糸島市コミュニティバスの白糸停留所があり、そこから少し東側に下った所に白糸の集落がある。 熊野神社は集落内の一番奥に鎮座。神社の左隣には白糸公民館がある。
観音堂は熊野神社境内にある。社殿に向かって右手である。 祭壇は3つの区画に分かれており、中央の区画に観音菩薩・勢至菩薩、向かって左手の区画に如来形立像、 向かって右手に阿弥陀如来坐像が安置されている。皆木像である。 観音堂の裏手には石塔・石仏群と墓標群がみられる。
写真
観世音菩薩立像(左)と勢至菩薩立像(右) 観世音菩薩立像の上半身 勢至菩薩立像の上半身 如来形立像 阿弥陀如来坐像 観音堂裏の石仏 観音堂裏のかなり古い墓標群 霊場額「光明新四国 第十三番 本尊 観世音■ 長糸村内」 観音堂前の風景(右手の建物は熊野神社の社殿) - 観音堂を背にして撮影 観音堂軒下に積まれた角塔婆 観音堂軒下に積まれた角塔婆
熊野神社
神門・鳥居をくぐって境内に入る。すぐ右手に巨木が立っている。樹名はわからないが根回り・樹高はかなりのものである。
境内は白糸分校が在りし頃は運動場を兼ねていたようで、遊具がそのまま残っている。
長糸の集落
自然豊かな地域である。
集落内には酒屋・大蔵観光休憩所がある。いずれも、現在は廃屋のような状態である。 休憩所は2階建ての立派な建物である。 昔は熊野神社の参拝客で賑わったことが伺われる。
川付川を少し登った所には白糸小水力発電所がある。
糸島市コミュニティバス 白糸 停留所脇 庚申塔 - 糸島市コミュニティバス 白糸 停留所脇 白糸の集落(赤矢印の先に熊野神社) - 小蔵橋より撮影 白糸地区の集落 - 熊野神社より少し降った所より撮影 昔懐かしい看板 - 白糸公民館前の民家の壁 酒屋跡 大蔵観光休憩所跡(写真中央の赤い屋根の建物) - 熊野神社境内より撮影 糸島市内 - 熊野神社より少し降った所より撮影 白糸小水力発電所(写真内赤矢印の先) - 小倉橋より撮影
長糸公民館
この建物は、2013年に休校(後廃校)となった糸島市立長糸小学校白糸分校の建物をそのまま利用しているようだ。 同分校は明治40年(1907)に開校され、昭和36年(1961)までは小蔵分校と呼ばれていた。 当分校は2年生までで、3年生からは麓の本校に通ったという。休校(後廃校)の理由は本校に入学する同級生と分かれて2年間学ぶ事は子どもに寂しい思いをさせるので入学時から本校に通わせたいと言う保護者の考えが大きな要素になったものという。 (Links① より)
『筑前国続風土記』巻之22 怡土郡・公領・唐津領
○小倉山
小倉村の上に在。石徑廿町上れば、小倉迚小なる村有。又熊野三所権現の社有。龍樹権現も相殿に祭れり。 十一月十八日祭禮あり。女人の参詣を免さず。社家者の説には、神功皇后の勧請し給ひし霊地なりと云。
其辺に寺地有。聖武天皇の勅願として、清賀上人創立し 小蔵寺と号す。 社の下に、古佛の観音堂有。 足利尊氏、其外國主領主の願書寄進状など甚多し。 然れ共雨に朽ち、蟲にはまれて、慥にみえす。 惜しむへき事なり。 昔は寺院僧坊も多かりしとかや。今はわつかに小社及観音堂一宇のみ残れり。 これも怡土群七箇寺の内なり。
『糸島郡誌』長糸村 第8章 寺社(p677)
○小蔵の観音堂
前田[1]にあり。怡土七ヶ寺の一なりし大用山小蔵寺(叉小倉寺)の址なり。 十一面観世音は清賀作にして、清賀開基に係る聖武天皇勅願所なりき。 岩蔵坊上尾敷坊他4坊ありて繁栄を極めし由なるも、今坊名宅地名となりて残れるのみ。 國続風土記太宰管内誌筑陽記等勅書及頼朝尊氏の寄進状ある由記せども現存せず。
関連ページ(※歴史的に過去に関連していた神仏施設他も含めています。必ずしも現在関連しているとは限りません。)
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