heritage 千福寺跡(せんぷくじあと) 仏教礼拝所 ☆☆☆ 享保の大飢饉

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〒819-1624 福岡県糸島市二丈満吉151   標高:39.1m 地図
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歴史

治承4年(1180)から始まった源平合戦は、敗色濃厚となり平重盛の内室一行は当時の大宰少弐であった原田直種を頼って大宰府に下って来た。その後、東原(とうばる)[1]まで逃れてきてここで隠棲した。

元暦2年(1185)平家が壇ノ浦で滅亡すると、源氏の追っ手が唐原の地にまで及んで来た。 2人の姫そして乳母は、突然目の前に現れた源氏の刺客に無惨にも斬られて、その場で息を引き取ったという。内室は悲しみの底に突き落とされ、娘たちの後を追って自害した。

後に原田種直がこれらの母子の供養の為、千福寺を建立した。寺号は2人の姫の名前「千」と「福」の文字をとって付けられたという。 当寺は内室が建てたという説もあるという。(Links①Links② より)

ひとくちメモ

参道脇には大乗妙典一字一石供養塔がある。格好の目印である。 供養塔の裏手の小高い丘の上にあると思われる。 休養塔の前を通り過ぎ20mほど進むと丘に登る山道の入口がある。 時節柄、長いものの出現を恐れ参拝を断念。残念。

Links② に境内の写真が掲示されている。

写真

  • 参道脇の旧家
    参道脇の旧家 

大乗妙典一字一石供養塔

大乗妙典一字一石供養塔
大乗妙典一字一石供養塔 
大乗妙典一字一石供養塔(拡大)
大乗妙典一字一石供養塔(拡大) 

表面に「大乗妙典一字一石書寫供養」「享保16年(1731)辛亥5月3日」銘。

Links①Links② によれば、この石塔は享保の飢饉の供養塔とされているが、 Wikipediaによれば、享保16年末に飢饉の兆候が出始め享保18年まで続いたとある。この石塔の年号銘(干支「辛亥」でも確認済み)は飢饉より半年以上前のもの。「飢饉の供養塔」には疑問符が付く。


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脚注