heritage 櫻井神社(さくらいじんじゃ) [桜井神社・與止日女大明神] 神道 ★☆☆

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〒819-1304 福岡県糸島市志摩桜井4227   標高:37.7m 地図 GMAP 092-327-0317  ホームページ FACEBOOK
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歴史

祭神は神直日神(かむなおひのかみ)大直日神(おおなおひのかみ)八十枉津日神(やそまがつひのかみ)島岡大明神(しまおかだいみょうじん)[1]八所産土大神(やところうぶすなおおかみ)[2]

慶長15年(1610)6月1日より翌2日の暁にかけて、大雷雨が起こり突如電光一閃のうちに岩戸神窟が開け、ご神霊が顕現。この事を聞き及び、多くの遠近の人々が参拝した。

浦新左衛門常治の妻女(のりくら・浦姫)は神託を受け、岩屋の傍らに参談所を設け、近郷近在から参詣する人々に神のお告げを伝え、その答えは寸分違うことなく正確であったと言われる。 その噂を聞きつけ、筑前国2代藩主・黒田忠之も参詣。 寛永9年(1632)に櫻井神社を創建奉納した。 (以上 ホームページ・櫻井神社駐車場脇の案内板(「浦姫宮ご案内」(平成5年))より)

浦姫については、浦姫神社のページを参照のこと。

参考:『筑前國続風土記』

ひとくちメモ

糸島半島の内陸部にあり神社周辺は田園風景で絶好の散策地である。 毎年10月18日はおくんちが催され、稚児行列・流鏑馬(やぶさめ)を観ることができる。

境内の南西部には櫻井大神宮が鎮座している。 東北1.4kmの所には二見ヶ浦がある。

相薗橋一の鳥居二の鳥居太鼓橋社殿馬場二見ヶ浦大口海岸の鳥居の順に記事を書きます。

イベント情報(今日から1年間)

○主催者などに事前に確認の上、参加下さい○

日時内容備考状態
2023-07-02()岩戸開き神事・例大祭一年に一度この日だけは岩戸神窟へ参入してお参りができます。確定
2023-10-18(水)新嘗祭(やぶさめ神事)五穀豊穣を感謝し、やぶさめ神事や稚児行列が行われます。確定
2024-01-01(月)〜2024-01-03(水)新年祭・正月岩戸開き社殿奥の岩戸神窟のご開扉。多くの出店が出て、多くの初詣の参拝者で賑わいます。中には入れません。確定
2024-01-10(水)初春祭(餅押し裸祭)早朝より福引き、夜は若人による餅押し裸祭が行われます。確定

相薗橋

相薗橋
相薗橋 
相薗橋脇の案内板
相薗橋脇の案内板 

案内板によれば、相薗橋(あいぞのばし)は筑前中で一番早く架けられた石橋。昭和28(1953)年水害によって流されてしまったという。

現在は、コンクリート製の地味な姿となって架け替えられている。


一の鳥居

一の鳥居
一の鳥居 
地元言葉を紹介した細長い4本の柱
地元言葉を紹介した細長い4本の柱 

一の鳥居は昭和57年(1982)銘。大鳥居である。『筑前國続風土記附録』の挿絵を見ると、江戸後期にはこの鳥居はなかったようだ。

鳥居をくぐったすぐ先に、参道沿いに地元言葉を紹介した細長い5本の柱が等間隔で立っている。 下にその内容を列挙する。番号は鳥居に近いものから順に振っている。

①番
  • てぇことした(退屈した、飽きた)
  • れいろう(やすで)ふぅ(かめ虫)笑い。(似たもの同志をあざけ笑うこと。)
  • てんどう萌え(捨てた種が自然に発芽すること。)
②番
  • えいまんじ向く(傾く・方向がずれる)
  • かまどの火が強う吹きゃあ、明日ぁ天気たい。
  • おうじょうした(どうしようもなく困った。)
③番
  • うんぞう(白蟻のこと。)
  • いがいまし(お嫁さんのほうが夫より年上。)
④番
  • おおばち言う(嘘をつく。)
  • 冬至から米粒一つずつ、日の長うなる。
  • かためえらり(着物の肩のところを歪んで着ること。)
⑤番
  • くさふるう(風邪をひく。病気になる。)
  • お庚申様ぃ ねずみもちばしょっちゅう上げりゃ 小遣い銭に不自由せん。
  • 切りこなぐる(小さく切り離す。)

二の鳥居

二の鳥居前の石段(ピッチが長い)
二の鳥居前の石段(ピッチが長い) 
二の鳥居(銘などは確認できない)
二の鳥居(銘などは確認できない) 

二の鳥居の銘は確認できない。『筑前國続風土記附録』の挿絵をみれば、江戸後期にはここに鳥居があったようだ。

二の鳥の手間の石段はピッチが長い。殿様の駕籠を横向きに担いで登りやすいように設計されたものだろう。


太鼓橋

太鼓橋
太鼓橋 
太鼓橋
太鼓橋 
太鼓橋(手前は禊場(と思われる))
太鼓橋(手前は禊場(と思われる)) 
禊場(と思われる)
禊場(と思われる) 

太鼓橋は禊場と思しき池の上に架けられている。 制作年代はわからないが、かなり古く、格調高いものである。

『筑前國続風土記附録』挿絵・『筑前名所図会』からは、江戸後期からこの橋があったかどうかは判別できない。


社殿

楼門
楼門 
楼門
楼門 
拝殿
拝殿 
拝殿(手前)と本殿
拝殿(手前)と本殿 
本殿軒下の装飾
本殿軒下の装飾 
社務所(左と楼門)
社務所(左と楼門) 
拝殿内
拝殿内 
手水舎 - 楼門前
手水舎 - 楼門前 

本殿には寛永9年(1632)の棟札が残る。

拝殿は本殿とほぼ同時期に建てられたと思われる。

楼門は本殿完成後、拝殿とともに、まもなく建てられたと考えられる。 正面に掲げられた扁額には「正一位與止姫大明神」とあり、享保元年(1716)に掲げられたもの。(以上 楼門脇の案内板より)

楼門と本殿の装飾は凝ったものになっている。 特に、本殿の軒下には色鮮やかな装飾がみられる。お見逃しなきよう。


馬場

馬場
馬場 
「大宮司 浦志摩守毎鎮之碑」 - 馬場脇
「大宮司 浦志摩守毎鎮之碑」 - 馬場脇 
灰皿とベンチ(ありがたい) - 馬場脇
灰皿とベンチ(ありがたい) - 馬場脇 
流鏑馬の武者
流鏑馬の武者 

馬場は二の鳥居から楼門に至る参道に並行して通っている。 石畳である。

毎年10月18日の新嘗祭のときはここで流鏑馬神事が行われ、多くの人々が参拝する。


二見ヶ浦

夫婦岩
夫婦岩 
夫婦岩(遠景)
夫婦岩(遠景) 
夫婦岩(超遠景)
夫婦岩(超遠景) 
夕日
夕日 

桜井二見ヶ浦は櫻井神社の宇良宮(うらのみや)。2つの岩は向かって右が男性の神様で伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、向かって左が女性の神様で伊邪那美命(いざなみのみこと)が鎮まっている御神体岩として信仰されている。

夏至の日、二見ヶ浦の中心へ夕日を迎えるという現象がおこる。(以上 ホームページより)

特に、春から秋にかけては、この周辺には絶景を求めて多くの人たちが集まる。 おしゃれなお店なども多数営業している。

二見ヶ浦|画像も参照のこと。


大口海岸の鳥居

新しい鳥居(「昭和37年(1962)・櫻井区産子中」銘)
新しい鳥居(「昭和37年(1962)・櫻井区産子中」銘) 
古い鳥居の跡(手前の黒っぽい短い柱)
古い鳥居の跡(手前の黒っぽい短い柱) 
大口海岸
大口海岸 
大口海岸
大口海岸 

桜井神社から北西900m足らずの所に、真新しい鳥居がある。「昭和37年(1962)・櫻井区産子中」銘 。 この場所はこちら

この真新しい鳥居の海側に、一対の古い鳥居の下部が残っている。 これも桜井神社関連の鳥居だろう。

ここから50mほど海側に進むと、素晴らしい大口海岸の景色を眺めることができる。 海岸には、オシャレなレストランもある。


『筑前國続風土記』巻之23 志摩郡の項

与止姫大明神社 - 『筑前國続風土記附録』(下)より引用
与止姫大明神社 - 『筑前國続風土記附録』(下)より引用 
櫻井神社
櫻井神社
『筑前名所図会』
櫻井神社本社
櫻井神社本社
『筑前名所図会』

(櫻井)の里の内藍園と云所に、與止日女大明神の社あり。 與止日女は社号にして、神直日(かんなおひ)大直日(おおなおひ)八十枉津日(やそまがつひ)の三神を祝奉る所也。

御社の(うしろ)高き所に岩窟有。 是を岩戸と云。

此御社創立の事を(たずぬる)に、慶長15年庚戌(1610)6月朔日の暁より翌2日寅卯刻迄、(この)岩窟の(あたり)に10間程の間、風雨(あわただし)く、雷電しきりにて、岩戸の口(はじめ)て開けぬ。

此事を聞及び、遠近の人来て見る者多し。(むら)人に浦新右衛門と云者有。 妻に神かゝらせ給い、山系人の吉凶を尋試にたがはず。 其他様々の神恠霊異ども有りし事あげて数え難し。 今の世には其事を聞伝へ、或はまの当りに見たる人も(なお)あれば、後に至ては、ひたすら虚説を書付置くぬる□云れんも口惜し、(かつ)(あや)しき事語らざるは古の(おしえ)なれば。さばかりいかめしき神異どもを、(ここ)には書もらし侍る。

同年11月21日、(かの)新右衛門の妻に告有て、5年の間穀をたち、薬酒を食とし、家内汚食を忌むべしとの教なりしかば、(それ)より5年の間、薬酒(ばかり)を飲で居たりける。 かくて参詣所を構へ、日々詣来る人々の吉凶を問ふに、(いささか)(たが)ふ事なし。 (かく)て霊験有事年久敷(ひさしく)、遠近に聞へぬれば、国主忠之公是を聞伝へ、近侍をして其事を試給ふに、誠に奇特ども多かりければ、(すなわち)忠之公自ら此所に参詣し給ひ、一日の事を問試み給ふに、 其言皆験有ければ、大に感じ給ひ。信心を発して、岩戸の前なる山、岩戸と同じ高さなりしを、社を立てん為地をのぞきて、ひきく引ならし、神殿を作らる。 遠国にては荘厳を極たる結構なりしかば、数年を経て寛永9年(1632)営作成就して、京都より吉田兵部小輔中臣治忠を招請して、社号を與止日女大明神とあがめ奉る。(中略)

浦氏をば(すなわち)社務職として、(その)毎成(つねもり)をば京都に遣し、吉田流の神事を学しめ、唯一神道を守らせ、国中社職の惣司とし、諸社の神職の輩にも、志有(こころざしある)者は浦氏の属し、仏氏の徒とならずして吉田流に帰せり。 始は神社の側に、いかめしき仏閣多く、社僧も住して、仏事を執行ひけるに、此事京都の吉田より、心得ぬ執行也と沙汰有故、寛文12年(1672)に祠官浦権大夫毎春、是を国君に申して、ことごとく仏閣をこぼちて、僧をしりぞけて、(もっぱら)に神道を執行せり

ここで、「吉田流」とは反本地垂迹説(神本仏迹説)を唱える神道の一派。(ほとけ)より神が上位の考え方と思われる。 小規模ながら明治の廃仏毀釈のようなことがおこっていたようだ。

『筑前國続風土記附録』によれば、当地志摩桜井には多数の寺跡があったという。 上記の政策で排除された仏閣・堂宇も含まれているのかもしれない。同書内に記されている仏閣・仏閣跡を列挙します。

『筑前國続風土記附録』巻之44 志摩郡 中 櫻井村の項に記された村内の仏閣・仏閣跡
形態場所記事
観音堂門川慶徳庵といふ寺の本尊なりしといふ。
口ノ坪養源院といふ寺の本尊なりしといふ。参照:養源院
末松圓法寺といふ寺の本尊なりしといふ。
福壽山東楽寺といふ寺の本尊なりしといふ。
野引正壽庵といふ寺の本尊なりしといふ。
行友記事なし。
地蔵堂立浦記事なし。
小菖蒲記事なし。
赤熊記事なし。
田高田記事なし。
地蔵野末松の境にあり。甘木地蔵といふ。
明圓寺といふ寺跡也。
此外菊池坊・岡田坊・田淵坊・東坊・宮司坊惣て5坊の跡此所にあり。
小田村光明寺の末なりしといふ。
薬師堂立花木東隠庵といふ寺跡也。
藤波医王山妙喜寺といふ寺跡也。
道城寺といふ寺跡也。
傍に八大竜王の石体あり。むかしは祠ありしとそ。
11月15日洞氏の農民より祭る。洞氏ハ昔より此処に住めり。
原田了栄より居宅及田地を与えし文書を蔵む。
寺跡立花木光壽寺といふ寺ありし跡あり。
慶長(1596-1615)の頃までハ寺ありしか、修理する人もなかりしゆへ、
本尊弥陀・釈迦・観音の三仏、近きころ今津村誓願寺に遷せしとそ。
テンネイジ天寧寺跡参照の事。
現存する寺院タニ善應寺参照。
カドガワ秀善寺参照の事。
タカウラ専光寺参照の事。
オニヅカ教念寺。浄土真宗本願寺派。昔は浄土宗。

関連ページ(※歴史的に過去に関連していた神仏施設他も含めています。必ずしも現在関連しているとは限りません。)

周辺のスポット(4km以内)

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脚注