雷神社
[層増岐神社中宮]
神仏習合
★☆☆
楓
清賀
紅葉
大杉
イチョウ
モミノキ
歴史
雷神社は層増岐(曽増岐)神社の上宮・中宮・下宮のうち、中宮として鎮座している。 このあたりは昔は「層増岐」と呼ばれていた。 昔から雨乞いの霊験あらたかの地という。
当中宮の祭神は、水火雷電神・高祖宮・神宮皇后・住吉大明神・八幡大神。 層増岐の歴史には神宮皇后も関わり、さらにその前までさかのぼるようだ。
当中宮の現在の駐車場の所に講堂があり、現在の千如寺の観音堂に祀られている千手千眼十一面観音像外、多くの仏像が祀られていた。 明治3年(1870)、当中宮より現在の千如寺に移されたようだ。廃仏毀釈が契機となったと思われる。
ひとくちメモ
雷神社は千如寺の前の道路を1kmほど登ったところに鎮座されている。 案内板によれば、中の坊観音堂があった場所という。
樹齢1000年を超すと言われる二本の観音杉、樹齢900年を超すと言われるイチョウ、樹齢400年以上のカエデ、樹齢200年~250年のモミノキなど があり、一見の価値は十分ある。
地元の人々の信仰心の厚さであろう。境内は綺麗に整備されている。 たまたまお参りしたときには地元の方々と思しき人々が草取りをされていた。
写真
『筑前國続風土記』
『筑前名所図会』 | 『筑前名所図会』 |
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『筑前國続風土記』巻之22 怡土郡 雷山の項を下に記す。
○雷山
雷村の山也。 一本云、雷村の山也。 麓なる高野より1里許坂を上りて、高き所に雷村有。 其地肥饒にして林うるはし。 其高き所を層増岐と云。 其絶頂は魔所也とて属人往来せず。 村中に在。 中宮より絶頂迄1里許り有。
日本紀を考ふるに、仲哀天皇9年3月壬申朔戌子、神功皇后羽白熊鷲討ん迚、香椎の宮より松峽宮に遷給ふ。 松峽宮は竈門山の下に在。辛卯に層増岐野にいたり、則兵を挙て羽白熊鷲を討て、是を殺し給ふと有。此所則層増岐野也。 御笠郡より遠く此所に来り給ひ、又夜須郡に至り、羽白熊鷲を討給ひし事は、夜須郡にて軍勢集らずして、熊鷲を討給ふ事叶がたく、伊覩縣主は最初に帰服せしもの成故、爰に来り軍兵を集て、再び夜須郡に赴き、熊鷲を討給ひし成べし。 さればこそ、層増岐野に至り兵を挙給ふとは伝はるならん。
此所に神功皇后の御遺跡多く、殊に古よりの文書旧記等にも、層増岐野と侍れば、是則層増岐野也事疑ひなし。
凡此境に神社3所有。 層増岐野に在神を層増岐明神と号す。瓊々杵尊成べし。 高祖の社の縁起に見えたり。 中宮に祭所神5座、中殿をば水火雷電神と云り。 左脇に住吉八幡の2神座す。 社は東に向へり。 中宮は村の中、いと高き所に在。水火雷電神と云るは、日本記に所謂、伊弉諾尊剣を抜く軻遇突智を斬て三段となす。 其一段是雷神と成と有。 則是雷神の鎮座有所成故、雷山と云。 其余の4神は後世相殿に祝奉る成べし。
下宮は香合石の下1町許、道の西に在。 笠折権現と云。 則上宮を爰に勧請せる也。 高祖明神、住吉大神を左右に配し祭る。 9月19日祭有。又毎月19日にも祭る。 されば雷神に雨乞をし侍るに、昔より今に至る迄、其験あらずと云事なし。 昔は帝王及び将軍家の御祈願所として、数100町余の神領を寄附せられ、さしも繁栄の地成しや。 綸旨御教書国主領主の文書多く伝れり。 近古九州大に乱し時、神領も没収せられぬ。 天正13年(1583)2月18日、秀吉公に雷山衆徒中より年頭の為、祝儀巻数として並杉原10帖を捧しに、秀吉公直書御朱印を給る。 此時迄は猶公儀へ直に使を達しける。 天正15年、小早川隆景、当国の主と成給ひし時、66石の寺産を寄附せらる。
観応2年(1351)7月の比、旱甚しかりしば(以下一本に追補)足利直冬当社に参詣し、祠官僧侶等に命じて、雩をせしに、忽に雷鳴て雨降ければ、直冬神異の思ひをなし、1首の和歌を詠じて、神殿に献ず。其歌に、
末の世と いかでおもはむ 鳴神の またあらたなる 天が下哉
此歌本書今に伝れり。 社家の旧説には神功皇后三韓を征伐せん迚、先此山に上り給ひ、層増岐岳にして天神地祗を祭り給ふ。 かゝる故に層増岐岳の上宮には、天神7代、地神5代の総社とて2社有。 殊に羽白熊鷲を討たん迚、爰に来り、軍勢を集め給ひし所なればにや。
雷村の麓、高野と云枝村に、皇后の御腰を掛給ひしと云伝る白き石有。 径5尺5寸、高さ3尺許有。此石をけがし、ふるれば、祟り有りとて、近比其宅の農人、石の上に、茅屋を作り崇め置ぬ。
又山中に旗竿山と云所有。 是神功皇后の御旗竿を取らせ給ひし所也と云伝たり。 其所にも皇后の腰かけさせ給ひし所成とて、方6尺許の石有。
又雷の社に上る山路の脇。民家の傍に香合石とて、高1間、横1間5尺なる石有。 其形方にして、蓋をしたるが如く成、合せめ有て、かうばこの如し。 故に香合石と云。 又神護石共云。 其上には土おほひて、唯一方のみ外に出たり。 社家に伝へて曰、此石は雷神八坂瓊曲玉、白銅鏡、天叢雲剣、此三種の神器を中に入て、納置給ひしと云うり。 此石の形、箱の蓋を覆ひたるに似たれば、かく附會して云成べし。
聖武天皇の勅願所として清賀上人爰に寺を立て、霊鷲寺と名づく。 或は雷電寺共云り。 後に改て千如寺と号す。是怡土七ケ寺の一にして、其余の6ケ寺も皆雷山を以て本山とす。 古へは僧帽10區有しといへ共、近世退転して今纔に3坊残れり。(昔の僧帽の跡は田園と成て、其地に坊の名残れるも多し。) 今其寺院の上首を仲ノ坊と云。又寶池坊、総持院あり。 総持院は古へ座主職たる僧の住する寺にして、延寿寺と号す。
本社の前、左の方に観音堂有。 千手千眼の観音を安置す。 高1丈6尺有。其手の数は誠に千有といふ。 さも有べし。 是清賀上人作れりと云伝たり。 其精巧なる事、畿内及他国にもめづらかなる古仏也。 観音の両傍に多聞持国の2像、及び28部衆有。 皆木像にして古仏也。
観音堂の内に大なる釜有。 其径4尺6寸許、深さ3尺5寸許有。 是雷山坊仲繁栄の時、祭に食物を烹調たる釜なりとかや。
古昔には雷山にも山伏居住して、此山にも峯入修行せり。雷山の麓高野に山伏の居たりし坊8區ありしと云。 寶厳坊と云るのみ其阯残りて、其余は定かならず。
また此社の四至、東は東ノ谷嶺ニ限。 西は旗振岳を限。 南ハ層増岐を限。 北ハ立石に限。と縁起に見えたり。
凡雷山は山桜多く、寺にも八重桜有て、花の盛はいと興有。 都近き所ならましかば、古人の吟賞にも預り、誠に山の甲斐あらん所なるをや。 斯る高山深谷の僻所の内にも、是佳境有事珍し。 「山川好所造化惜ム世人ノ平地看ルヲ許さず。」と古人のいへりしもかゝる所成べし。 いとま有人は尤遊賞すべき所也。
雷村より肥前国無津呂村に越る道1里許有。 其間に大峠とて坂有。 無津呂は茶を多く植て、土民の産とする所也。 山中にある村也。
又、雷村の西に怡土城の阯有。其下に筒の瀑布有。其詳なる事は、古戦場の記にしるせり。
[作者メモ]「下宮」の所在がわからない。以下メモとして残す。
- 『筑前國続風土記』
- 「下宮は香合石の下1町許、道の西に在。 笠折権現と云。」とある。
- 「香合石」は現在の「雷山神籠石水門」ではないだろうか? 現在その傍に筒城神社阯がある。これが、笠折権現のことだろうか?
- 『筑前國続風土記附録』巻之42 怡土郡 下 雷山村の項
- 「下宮 (中略) 笠折権現といふ。(中略)社の左傍に風穴といふあり。」とある。
- 「風穴」は千如寺境内の南西の端で作者は目撃している。
- 層増岐大明神社図(右)
- 「風穴」が描かれている。その脇に赤い鳥居があり、神社と思しき建物もみられる。 その社号の文字がかすれて見えづらいが、最初の一文字は竹冠だが「笠」ではなさそうだ。