東正八幡宮
[熊野宮]
神道
☆☆☆
肥前狛犬
- 住所・電話
- 〒819-1122 福岡県糸島市東1105 標高:9.2m 地図 GMAP
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歴史
祭神は誉田別天皇(応神天皇)・息長足姫命(神功皇后)・比賣大神。 祇園社と天満宮を相殿に祀る。
応和3年(963)、原田春實が天慶2年(935)逆臣伊予藤原純友を討伐(天慶の乱)できたのは心霊の加護によるとして、その子・泰種と共に山城国(京都)南男山の心霊を勧請し、奉ったのが当八幡宮である。 この時、鷹ケ峰(現宮地岳)の山上に鎮座していた熊野宮を境内に移した。社殿に向かって右手に祀られている。
その後も原田高祖城主(怡土城・原田城)の崇敬厚く原田八幡宮と称せられた。
春實の子孫である原田種直(1140-1213)は源平の戦いで源義経と戦って敗れた後、鎌倉扇谷に幽囚される。 後、建久8年(1197)免されて岩門城(筑紫郡安徳村[1])に帰る。 種直は国政をその子に禅り、当社の東100m付近に仮宅を設け、当社を補修し崇敬した。
種直(妻は平重盛の養女)は重盛菩提の為龍国寺を創建した。 種直の墓は当社を出て長野川沿いに上流に20mほど登った林の中にひっそりと立っている。(以上 境内の案内板(平成5年(1933)3月)[2]より)
ひとくちメモ
長野川に架けられた将軍橋を渡る。ニの鳥居をくぐり左手に紅梅が咲く手水舎を見てさらに前に進むと正面が社殿となっている。 社殿に向かって右手に台風被害の後再建された熊野神社が鎮座している。
ニの鳥居は明神鳥居の類型に属すとは思われるが、柱が円錐形で下にゆくほど太くなっている。 しかも三本継。柱だけみれば肥前鳥居と見間違う形である。 一の鳥居も変わった造りである。当ページの最下部をご覧ください。 社殿の両脇には福岡県では珍しい形の狛犬が立っている。 まるっこい肥前狛犬の形をしている。
肥前鳥居・肥前狛犬共、佐賀県佐賀市・小城市・唐津市などで見られるものである。 このあたりは藩政期以前は筑前領と中津領・公領との領堺の地にあたる。 更に西に進めば肥前唐津領であった。西側の文化の名残なのかも知れない。
写真
ニの鳥居(柱が三本継) 拝殿内 拝殿に掛けられた由緒書 境内風景 神木(ナギ・台風で倒れて隣の熊野宮の社殿がつぶされた。右下隅に「御櫛石」) 庚申薹(「安永三天甲午(1774)二月吉日」銘) - 熊野宮の裏手 庚申薹 狛犬(吽形) 狛犬(阿形) 手水舎と紅梅 紅梅(拡大) ニの鳥居の三本継の柱 将軍橋 将軍橋(左手が東正八幡宮) - 長野川下流より撮影 門前の長野川で遊ぶカモたち 宮地岳(左)と東正八幡宮
熊野宮
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当社の北側にある宮地岳の山上に鎮座している伊都国宮地嶽神社境内西側の端の土塁の上に正徳2年(1712)銘の石祠がある。この地が熊野宮旧跡である。 熊野宮の由緒が石祠の側面にびっしりと記されている。
吉備真備が入唐の時、登山して熊野三神を勧請。渡海守護を祈願し、無事帰朝の後、天平勝宝元年(749)、再び登山し、報賽の為殿宇を建立した。 これが熊野宮である。
この時、寺も併せて建立。鷹峯寶積院と号し、珠福・普門・龍樹・若王・地蔵・千手・文殊・普賢・大悲・釋迦文・如意輪・瑠璃光の12坊を置き、開山を壽永法師とした。
応和3年(963)大蔵春種の嫡男・泰種が遺言を承け照松に八幡宮を勧請。これが現在の東正八幡宮である。 この時、熊野宮を八幡宮境内に遷座した。鷹峯寶積院も同様に移ったと思われる。鷹峯寶積院を将軍山神宮寺と改め、12坊を各地に配した。下表の通り。
『糸島郡誌』(昭和5年)の記事 | 作者コメント(2022年現在) | ||
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瑠璃光院 | 之を河園に創す。今の薬師堂是なり。 | 所在不明。 | |
如意林院 | 之を冠(加布里)に移す。今の天祥寺是なり。 | 糸島市加布里342-5に正剛館天祥寺道場がある。 その東側には広大な前原加布里霊園がある。このあたりにあったお寺だろうか? | |
釋迦文院 | 之を影取に移す。今の本厳寺是なり。 | 所在不明。 | |
文殊院 | 鷹峯の東西に檢構す。 | これら4院は鳥有となる。 | |
普賢院 | |||
龍樹院 | 照松の南に造営す。 | ||
若王院 | |||
地蔵院 | 楠田にあり。今の地蔵堂是なり。 | 所在不明。 | |
大悲院 | 池園に建つ、大悲閤是なり。 | 所在不明。 | |
千手院 | 田中に営む。清水寺の旧跡是なり。 | 所在不明。 | |
普門院 | 本社の右に置く。今の観音殿是なり。 | 本社右手には熊野宮の社殿がある。これのことだろうか? | |
珠福院 | 本社の左に置く。今の宮司坊是なり。 | 現存。現宮司のお宅と思われる。 |
(以上 『糸島郡誌』(昭和5年(1930) 加布里村)及び石祠に記された文章より)
原田種直の墓
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種直の墓所は東正八幡宮の門前の道を長野川沿いに20mほど登った所の道端にある。
中央に種直のものと思しき自然石製の墓碑。 両脇に小さな五輪塔が4-5基立っている。お供の者達の墓だろうか?
一の鳥居
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当社の参道は門前の将軍橋をからほぼ西側に向かって200mほど一直線に伸びている。 参道が始まる所はT字路となっているが、以前はその先にも参道が伸びていたのかも知れない。
T字路の脇には巨大な庚申塔が立っている。
ここに立つ一の鳥居はかなりの年代ものと思われる。向かって右手の柱は昔からのもの。文字が刻まれてはいるが判読不可。左手は昭和51年(1976)に取り替えられたものである。 新旧の両柱は断面が六角形である。作者は初見である。
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