heritage 眞清水山 平等寺(びょうどうじ) [眞清水観音] 仏教礼拝所 ☆☆☆ 伊藤氏参拝済 唐津街道周船寺 三体の奇南香観音像 筑前国中三十三観音霊場第12番札所

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〒819-1105 福岡県糸島市潤3丁目18-11   標高:9.7m 地図 GMAP 092-324-2123 
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歴史

伊藤氏メモ平等寺は、今は観音堂一つだけの無住の寺になっているが、昔は境内が方一町ある巨刹で、かつてこの地の支配者大友氏や原田氏からの尊崇厚い、寺領も多いお寺であった。   今も寺の周辺に残る字名の番田(寺の番人がいた所)・鐘撞・門前などの地名は平等寺の境内であった名残という。

平等寺の兼務住職の西泉寺の住職が書き残した昭和12年の由来書によると、平等寺は延暦14年(795)、時の征夷大将軍坂上田村麻呂により創建された。

桓武天皇から蝦夷征伐の詔を受けた田村麻呂将軍は日頃から信仰する観世音菩薩に伏敵を祈願し、そのご加護によって将軍は大勝利した。感謝した将軍は3つの観音霊場を創建、奇南香(きゃら)の木で造った3体の観音像をそれぞれの霊場の本尊にした。 それが京都清水寺の音羽観音、2体目がここ平等寺の真清水観音、3体目が唐津鏡山の赤水観音で、日本で3体しかない珍しい観音様という(真清水観音像のみが現存)。

真清水観音堂も元は潤村の南方、真清水(益水)の福千寺にあったが、平等寺が兵火で焼失したので、ここ平等寺の跡地に移し、平等寺の元々の行基菩薩作と伝えられる聖観音坐像(救世観世音)と一緒に、奇南香の木の真清水観音様を安置するのが、現在の観音堂である。

往昔は法灯盛んであった平等寺も、戦国時代の元亀3年(1572)に、怡土を支配する大内派の高祖城主の原田氏と、志摩を支配する大友氏輩下で草葉城を預かる臼杵氏との戦いで焼失し、衰退した。

元禄の頃(1688-1704)、由緒あるこの霊場の荒廃を嘆いた西泉寺住職の興山宗隆大和尚が藩主黒田公に請い、村民と協力して寺を再興。今も西泉寺住職が兼務で平等寺の住職を務める。 『筑前の寺めぐり 』より()

平等寺のすぐ近くに旧唐津街道が通っている。 今宿から西に向かって走っていた街道がわざわざ平等寺の手前で急に右に曲がって平等寺のほぼ山門前を通っている。 当時は、旅人の唐津への旅の安全を祈願した場所であったのではなかろうか?

参考:『筑前國続風土記』

ひとくちメモ

平等寺は糸島市閏の泉川のほとりに伽藍を構えている。 現在は無住である。 朱印は西隣の専徳寺で頂けるようである。

境内には臼杵塚(さざんか塚)と言われる墓石があり、その後ろの案内板には 「元亀3年(1572)正月、部下とともに壮烈な最後をとげた臼杵進士兵衛らを弔う為塚を建てさざんかを植えた」 と書かれた木製の案内板がある。 上の『筑前國続風土記』にも記述がある臼杵進士兵衛はどうやら戦国武将の一人であったようである。 下のページに詳しく記載されている。 日本史赤点の作者は、その中身までは踏み込む知識も時間もないが興味のある方はご覧いただければと思う。

[W]柑子岳城争奪戦[W]生の松原合戦

伊藤氏メモ本HPひとくちメモ欄に記載されている臼杵塚。案内板がなくなっていました。残念なことだと思います。()

写真

  • 臼杵塚(さざんか塚)
    臼杵塚(さざんか塚) 
  • 本堂の扁額
    本堂の扁額 
  • 本堂裏手の建物の部材
    本堂裏手の建物の部材 
  • 境内の石燈篭 - 安永6年(1777)の銘
    境内の石燈篭 - 安永6年(1777)の銘 
  • 地蔵菩薩像
    地蔵菩薩像 
  • 境内風景 - 本堂を背にして撮影
    境内風景 - 本堂を背にして撮影 
  • 山門脇の小堂
    山門脇の小堂 

『筑前國続風土記』巻之23 志摩郡 ○潤村(益水観音 平等寺 臼杵塚)

『筑前國続風土記附録』(下)挿絵 益水観音
『筑前國続風土記附録』(下)挿絵 益水観音 

福岡より此所迄四里有 。 前原は是より半里許西に在。此村の通路に土師(はじ)と云所有。 初は潤村の本名を土師 と云しとかや。

昔此所に平等寺と云禅寺有。 大寺に して宅地方一町有とかや。 大友氏尊崇の寺成しが、今は亡びて其址さへ定かならず。

其寺に在し観音、今猶存して土師に在。鐘今聖福寺に在。 彼平等寺には寺領も多かりしと云傳へたり。又 も益水(ましみず)の観音とて、 初は潤の本村に在し佛をも、土師に移せり。 土民の云るは、此観音は日本三體の観音と云傳へり。 ーには京都清水寺、二には筑前益水、三には肥前國赤水也。 佛體は奇南香(きやら)[1]て作たる物にて秘佛也。

かく有佛なれば、邊(ひな)にあれ共、 遠近より詣参る人多し。 観音堂の在所も、則平等寺の寺内也しが、當昔は観音堂の前に、山茶を植たる墳有。 是は臼杵進士兵衛鎮氏の墓所也。 今は海石榴も枯、 墳もなく、其地分明ならず。

此進士兵衛は大友氏の家臣にて、志摩郡の政所職を勤、柑子岳[2]に在城せしが、 高祖の城主原田弾正少弼隆種入道榮の勢有を(そね)み、 私のいかりを以て常々是を亡きむと謀る。 然所に元亀三年(1572)正月十六日了榮宿願の事有て、 今津の毘沙門に参詣しけるを討んとしけれ共不叶。 是を口惜く思ひ、 同月廿八日、柑子岳に打出、 原田か所領打通りける。 原田方よ此由を聞、大勢にて打て出、 池田河原にて散散に戦ひけるが、 臼杵進士兵衛打負て、泊り城に乱入むとす。 土師の平等寺まで落行しを、高祖勢寺中 に乱入して攻ければ、進士兵衛鎮氏を始とし属従廿八人同時に腹を切てけり。 進士兵衛が首を西彌八郎と云者打にける。志摩郡の士共- 或は討れ、或は落行ければ、軍は爰に止りける。 斯て進士兵衛の墓を平等寺に築て、其印に山茶(さざんか)を植て、臼杵塚と名付しとかや。

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