宮谷山
宗賢寺
[宗賢禅寺]
曹洞宗
★☆☆
坐禅
長崎街道内野宿
内野太郎左衛門の墓
歴史
宗賢寺の由緒は、本堂右手の山林の中にある内野太郎左衛門の墓標横の350年忌の石碑が分かり易い。その内容を下記に示す。
卜祐宗賢居士 内野太郎左衛門の墓
内野氏はもと肥前松浦にあって松浦姓を称していた。 当地に「松浦川」「唐津庚申」の地名や塚が残るのは、内野氏の祖先に従ってこの地に移ってきた人々の故地に対する望郷の思いを示すものと言われる。 下って25代の子孫饗庭彦二郎重信は、黒田長政公の筑前入国の時もちいられ1万石の代官を命ぜられ、同時に、地名に因んで内野太郎彦左衛門の名を賜った。
慶長年間(1596-1615)、参勤交代のための道路整備に際し、太郎左衛門は冷水峠開削の任に当り慶長17年(1612)、街道・内野宿を完成させた。 従来山間の一寒村に過ぎなかった内野が、長崎街道・筑前六宿の一つとして栄えるようになったのは、実に太郎左衛門翁の功績にほかならず、内野の開祖と仰ぐ所以である。 元和9年(1623)長政公が没すると薙髪して小庵を営み、公の戒名から卜の一字を許されて卜祐宗賢と号し、日夜公の菩提を弔った。寛永16年(1639)61歳で没した後、 この庵を改めて寺となしたのが今日の宗賢寺である。 (後略)
宗賢寺の参道脇にある立て札によれば開基は嘉麻市上臼井の太平山 永泉寺12世和尚とのこと。
ひとくちメモ
宗賢寺は長崎街道内野宿のメインストリートであった所(現内野郵便局)より北側に進み、JR筑豊本線の踏切を渡った左手を線路沿いに進んだ所に伽藍を構えている。
境内は森に囲まれひっそりとした静けさがただよっている。 本堂右手の山道を数10m登るとそこに内野太郎左衛門の墓地がある。 また、本堂左手の石段を登ると宗賢寺第6代大澄和尚が明和3年(1766)遠江の国から内野宿の火除けの神として勧請した三尺坊秋葉大権現が鎮座する。
本堂前にはひょうたんの種にお持ち帰り用のビニール袋が添えて置いてあった。(これはうれしい) また庫裏前にも多数のひょうたんが干してあった。 和尚の趣味であろうか?
写真
本堂の扁額 山門 三尺坊秋葉権現への石段(本堂左脇) 三尺坊秋葉権現 参道入口 - 線路はJR筑豊本線 参道 - 山門は画面中央左側の狭い道の先にある 山門脇のお堂 庫裏の前にはひょうたんが干してある 境内のイチョウの古木 本堂 境内風景 - 秋葉権現より撮影 本堂前の持ち帰り用のひょうたんの種 梵鐘 境内風景(写真中央は本堂) 境内のワンちゃん 参道のアジサイ 参道のアジサイ
昔の参道口
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現在の参道は寺の北側からJR筑豊本線の線路沿いにある。
2020-06-20、宰府参詣道の踏査の為近くまで来たので久しぶりの参拝。 本堂の真正面の先に石段が下っており、その先に参道と思われる道がある。 その道は左右に走るJR筑豊本線をまたごしている。
本来、こちらが表参道だったのだろう。 参道はこの先で長崎街道に口を開いていたのではなかろうか?
『筑前国続風土記拾遺』巻之27 穂波郡 上 内野村 宗賢寺
駅内に在。 宮谷山と号す。 禪宗洞家嘉麻郡麟翁寺末也。 寛永16年(1639)内野太郎左衛門開基す。 其法名を宗賢と云故に寺号とせり。 彼はもと大庭氏なりしか、興雲公に仕へ命によりて内野と改む。 其墓境内に在。 内野太郎彦左衛門重成卜幽宗堅寛文丙午[1]とあり。