曩祖八幡宮
神道
☆☆☆
長崎街道
伊藤氏参拝済
歴史
社伝では神功皇后が三韓征伐からの帰途、嚢祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられる。 このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるという。 その跡に作られたのが当社であるという。創建年代は不詳であるが、延文4年(1359)には社殿が建立されていた。
門前の道は長崎街道である。
門前の長崎街道の向かい側に寳月樓跡がある。
ひとくちメモ
境内は多数の木々に囲まれている。
写真
寳月樓跡
ここには寳月樓跡の石碑があるのみである。 九州情報大学 進藤 康子氏の論文『大隈言道自筆資料『自詠集中抄』によれば、 飯塚での歌会指導の折の大隈言道(1797-1876)の定宿であり、言道を指導者として招いた古川直道、青柳直雄、そして、門下生筆頭の小林重治らが一緒に舟に乗り込み、風雅を楽しんだ場所であったようである。 宝月楼と嚢祖八幡宮の間には、遠賀川からの水をめぐらせて舟が横付けできたとのこと。 また、亀井南冥もたびたび訪れていたようである。
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