太閤水
[八並の太閤水]
史跡
☆☆☆
唐津街道
歴史
現地の案内板の内容をそのまま記す。
天正15(1587)年豊臣秀吉は、島津制圧のため軍勢と共に小倉に入城し、25万の軍を二つに分け、 自らは筑前から肥後路へと南下した。黒崎、赤間を過ぎ 山の口峠(八並)を越えたところで秀吉は大休止を命じ水を求めた。 千利休が土地の老人の案内で清く冷たい水を得て、 この水で喉を潤した秀吉は大変おいしかったと見え、「この水の味、京に戻っても決してわすれるな」 と言ったといわれている。
秀吉は5月には九州平定を完了し、筥崎宮に本陣を置いて約1ヶ月滞在した。 この間に国割、町割、禁教令などを施行、茶会、連歌会を催したりして、7月に箱崎を出立して帰路についた。 おりからの炎暑の中、再び山の口峠にさしかかる前に馬を休め、この水で喉を潤し大変喜んだと伝えられている。以来この清水を「太閤水」と呼ぶようになったという。
藩政時代は人馬も往来が多く、旅人たちはこの水で喉を潤して峠を越えたのであろう。 太閤水は他にも、若松区[1]・宗像市・新宮町[2]・福岡市西区[3]・ 二丈町・鎮西町にも残っている。 (文:平成11年度 福間町公民館主催講座 ふるさと再発見教室)
太閤水前の道は唐津街道である。
参考文献:『筑前國続風土記拾遺』
町名「八並」は「やつなみ」と読む。
ひとくちメモ
唐津街道 を探索中に偶然発見した。畦町宿-大穂間の農家の畑がある旧唐津街道の脇にひっそりとしてあった。 井戸の石は新しく、最近改装されたもののようである。
写真
『筑前國続風土記拾遺』巻之下37 宗像郡 中 八並村の項
普恩寺(付太閤水)
金魚山と号す。 禅宗洞家大穂村宗生寺末也。 慶長年中(1596-1615)桂空と云僧大穂の出口に建立せしを、 延享元年(1744)戒供と云僧當村龍谷庵の地に移す。 本尊ハ地蔵仏也。
寺内に清泉有。太閤水と云。 秀吉公下向し給ひし時、茶の湯に汲給へる水と云。 因て此名あり。
太閤水のある所はわずか数件の集落である。このうちのどれかがその普恩寺ではないかと作者は思っている。 これは未確認である。 機会があれば、この集落の方にうかがってみたいものである。
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