観地山地蔵尊
仏教礼拝所
☆☆☆
唐津街道
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- 〒811-3203 福岡県福津市本木1311 標高:44m 地図 GMAP 0940-42-0033
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歴史
地蔵堂内に掲示されている案内板の内容を下に引用する。
観地山縁起
駿河の国木嶋長者とまでいわれた三河元直の子米一丸。15歳にして木嶋正直と名乗り元暦元年(1184)若狭の長者の娘八千代姫を嫁に迎え結婚披露のため京都一条殿に参殿した。 好事魔多しととか。 垣間見た一条殿は姫に言い寄ったが数度の文にも貞操賢固の姫の心を動かすことかなわず姫はそのまま国元に引き揚げた。 このことが故で禍が木嶋一家にふりかかった。
文治元年(1185)秋。米一丸は一条殿より命を受け、 かつて一条殿が九州柳川在住の折手にした三池典太作の銘刀一振りを博多の人に遣わしていたが、 その品を取り返すため然るべき代金を受領し博多に出向くことになった。
一条殿の命とて一家涙の内に別れ文治2年正月股胘の臣直好を頭として総勢44名の家臣と共に国元出発。 翌3年正月博多は竹勘九郎方の浜屋敷に旅宿をとり件の刀の詮議をした。
土居町奥某なる商人心よからず、かねてより一条殿の内密の命を受け、博多奉行とはかり金受取次第米一丸の命をとろうということで、取引をのばし隙を見て米一丸を殺害しようとしたが、主従共に力を併せ一分の隙もなかった。
その後、米一丸の博多逗留も200日を過ぎ、かの銘刀の譲り受けもすんだところ、敵は400人で浜の屋敷を攻め立てた。主従力を併せ千代の松原に逃れ、奮戦したが利あらず米一丸覚悟を決め七生この恨み晴らさでおくものかさらばとて恨みを呑んで一文字に腹かき切って死す。こうして郎党の衆45人も共に主人の後を追う。あとにひとり松風の音のみ悲しい調べを奏でていた。
米一丸の奥方八千代姫は、夫の身を気遣い博多に至ったがすでに夫が殺されたのを聞き、その地にて自刃してしまった。母親も吾子の成り行きを案じながらはるばる九州路に下られたが本木郷下がり藤にて米一丸の悲運を聞き病に弊れ程なく死す。後の人此の地に親子地蔵を祭ったのが即ち此の観地山地蔵と言い伝える。
即ち子供の危難病気に立願すれば御利益あり。 世人の尊信あつく近郷近在はもとより博多より参り来る人多し。
星移り物換りて■に800有余年の昔物語となりにける。
御神体: 短刀一振り、櫛こうがい、遺髪
参考:観地山由来 (本木)中村是人蔵 平成20年11月5日記
福岡市博多区箱崎に米一丸の供養の為、米一丸の塔が、後世の人たちによって建てられている。 門前は丁度、唐津街道畦町宿の西構口があった所である。
ひとくちメモ
堂内には石が3体安置されている。 畦町宿のパンフレットによれば、中央の板碑には宝永4年(1707)の銘があるという。 地元の方々が清掃作業などされて維持管理されているようである。
写真
地蔵堂 - 裏手の畑より撮影 地蔵堂の扁額 石段脇の道標 地蔵堂内に掲げられている800周年記念の手ぬぐい 境内風景 - 地蔵堂を背にして撮影 境内の石仏 境内の石仏 石段 地蔵堂裏手の風景 案内板(地蔵堂内)
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