heritage 薬師如来堂(やくしにょらいどう) [最勝院跡] 仏教礼拝所 ☆☆☆ イヌマキ 伊藤氏参拝済

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〒819-0031 福岡県福岡市西区橋本1丁目3-18   標高:5.2m 地図
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歴史

筑前國続風土記拾遺』巻之43 早良郡 上 橋本村の項に下記の記事がみられるのみで詳しい歴史は不詳。

薬師堂(馬場前最照院址)

この地は、寛永5年(1628)に黒田藩3代藩主光之が誕生した地である。 母は橋本の生まれの本姓坪阪氏、母方の性を用いて新見を名乗ったという。 その後、彼女は父2代藩主忠之の夫人(養照院)となる。

この地より300mほど南側にある橋本八幡宮の北側の鳥居前には赤い鳥居の稲荷大明神が鎮座しており、 その脇のクスノキの大木の根本に「黒田52萬石三代當主 光之公誕生のヨナ埋接之地」の石碑がある (橋本八幡宮の記事参照)。 ヨナとは、「胞衣(えな)」と書き胎盤のこと。

筑前國続風土記附録』巻之40 早良郡 下 橋本村の項に下記の記事がみられる。

○村中に馬場の前といふ所あり。 光之公の誕生し給ふ地なり。

ひとくちメモ

薬師堂は現橋本公民館の境内にある。 堂内は左右2室に別れており、左側に薬師如来像と思われる立像がある。 像長90cmくらいか? 肝心の薬壺(やっこ)を持つ左手がなくなっており、それが薬師如来かどうかは確認できない。 右手には弘法大師像と思しき坐像がある。 両者ともかなりの年代を経たもののようである。 境内にはイヌマキ・クスの大木がみられる。

薬師堂の裏手には「黒田光之公(三代當主)の誕生し給ふ地なり」の石碑がある。 石碑の裏手にはかなりの年代を経たと思われる墓碑が10ほどみられる。

ここと橋本八幡宮の間はかなり古い町並みがみられる。 橋本八幡宮境内には、イヌマキ・クスの幹まわり4m級の大木が多数みられる。 特に多数のイヌマキは圧巻である。 薬師如来堂お詣りのあとここへのお詣りもされてはいかがか?

写真

  • 薬師如来立像と思われる木仏
    薬師如来立像と思われる木仏 
  • 弘法大師像と思われる木像
    弘法大師像と思われる木像 
  • 薬師堂内の扁額(文久3年銘。額内に多数の「目」の字)
    薬師堂内の扁額(文久3年銘。額内に多数の「目」の字) 
  • 薬師堂内の扁額(「第39番 御国八十八ケ所霊場 最勝院」)
    薬師堂内の扁額(「第39番 御国八十八ケ所霊場 最勝院」) 
  • 「裏手の黒田光之誕生の地」の石碑後の古い墓標
    「裏手の黒田光之誕生の地」の石碑後の古い墓標 
  • 裏手の田園風景
    裏手の田園風景 
  • 公民館前の石灯籠の屋根部
    公民館前の石灯籠の屋根部 
  • 橋本公民館前のイヌマキの木々
    橋本公民館前のイヌマキの木々 
  • 橋本公民館前
    橋本公民館前 
  • 薬師堂への参道口(地蔵堂が鎮座)
    薬師堂への参道口(地蔵堂が鎮座) 

3代黒田光之が何故この地で生まれたのか?

「裏手の黒田光之誕生の地」の石碑
「裏手の黒田光之誕生の地」の石碑 

伊藤氏メモ[3代黒田光之公誕生の地の碑]がありますが、なぜ、この地で誕生したのか?との疑問は、 近所の方のお話によって解決しました。 当時この地には黒田の殿様の御成り所(休憩所)があり、2代目忠之公がここを通りかかったときに、 その忠之公にある気の強い若い女性が稲の苗を投げつけたとのこと。この女性はたいそうな美人であり、 忠之公はその女性を気に入り、この地に側室として置き、その後ここで光之公が生まれたものとのことでした。

なお、この女性は2代忠之公の夫人(養照院)となったが、以前は母方の姓の新見を名乗っていたという(当HP歴史欄)。 その弟は新見太郎兵衛という武士であったが、1673年の島原の乱にて討ち死。 遺言により平尾にある光専寺に葬られている。 また、忠之公が絵師に描かせた新見太郎兵衛の絵像も寺宝として残されている(福岡寺院探訪より)。()

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