綿津見神社
神道
★☆☆
木造薬師如来坐像
木造虚空蔵菩薩立像
歴史
綿津見神社の由緒について香椎宮旧記に次のように記されている。 神功皇后が征韓の為渡航した際、対馬から発船した時、にわかに大雷雨大風が起こり船が危険な状態となった。 この時、3枚の苫[1]を海中に投入して「何れの時何れの処にあれ、此苫の流れ寄らん地に社を建て参拝せん」 と海神に祈った所、立ちどころに風雨が止み征韓を成し遂げることができた。 凱旋した後、苫が漂着した地に3枚の苫を神体として社を建て海神を拝祭った。 それが当神社である。このことによりここの地名を「三苫」というようになった。(境内の石碑より)
境内の石祠に「八大龍王」と彫られた古い額束[2]が安置されている。石祠の中の由緒書きによれば、当社は昔は「八大龍王」 もしくは「龍王」と称されていたが、明治初年の廃仏毀釈の際、社名を現在の「綿津見神社」に改められたという。
社殿に向かって右手奥に虚空蔵堂と大日堂がある。虚空蔵堂の前面には延暦24年(805)最澄(伝教大師)が入唐からの帰路、 花鶴浜(古賀浜)に上陸し、1ヶ月滞在した際、彫刻・安置したものという。虚空蔵菩薩の縁日祭は毎年1月13日7:00-17:00。
虚空蔵堂に安置されている仏像群は檜一木造の不動明王像・吉祥天像、樟材一木造の如来形立像・ 虚空蔵菩薩立像・薬師如来坐像からなっている。造像時期は薬師如来坐像が南北朝と考えられるほかは、いずれも平安後期の作と考えられるという。木造虚空蔵菩薩立像・木造薬師如来坐像は福岡市指定文化財。(Links①)より
大日堂に安置されている木造大日如来立像の由緒は不詳。
参考:『筑前國続風土記附録』
ひとくちメモ
境内は管理が行き届いている。サクラ・フジ・マキ・シイなどの植え込みが見られる。 虚空蔵堂・大日堂共扉は施錠されており扉の格子越しの参拝となった。 御堂内に安置されている諸仏は歴史を感じさせるものとなっている。
境内の北側にも鳥居があり、そこをくぐった先は海岸となっている。 手すりの付いた石段が設置されており海面まで下りて行ける。磯遊びもできる。 そこから眺める太平洋の風景はなかなかのもの。西側を望めば志賀島に通じる海の中道の景色も見える。
写真
境内風景(写真中央が社殿) 綿津見神社社殿 鳥居 古い鳥居の額束「八大龍王」 虚空蔵菩薩 - 祭壇中央・虚空蔵堂内 不動明王・吉祥天 - 祭壇向かって右手・虚空蔵堂内 薬師如来 - 祭壇向かって左手・虚空蔵堂内 大日如来 - 大日堂内 大日如来(拡大) - 大日堂内 通夜堂 藤棚(3分咲き) 社北側の海岸に下りる石段(石段の上が綿津見神社) 社北側の海岸 社北側の海岸(前方の左右方向の陸地は海の中道) 社北側の海岸 社北側の海岸
『筑前國続風土記附録』巻之37 裏糟屋郡 三苫村の項
八大龍王社(神殿6尺四方・拝殿1間半2間・祭礼9月11日・祭祀稲光主計[3])
産神なり。祠は村の乾2町許にあり。祭る所志賀三神なり。 社説に神功皇后三韓を征伐したまひし時、海上擁護の神なりしと有。 又香椎宮の祠官権大宮司三苫氏ハ此村より出たりといふ。 社内に大日堂・ 虚空蔵堂あり。(此佛ハ98代崇徳院の御宇海中より取り上けしといふ。天正年(1573-1593)中兵火にかゝり堂舎焼失せしかは、此社内に移せりとそ。古き鰐口あり。享保(1716-1736)の年中農夫圃中より掘出せりといふ。)
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