仏旗 飢人地蔵堂(うえにんじぞうどう) 不詳  UENIN-JIZO-DOU TEMPLE 唐津街道 糸島東部八十八ヶ所霊場第36番 伊藤氏参拝済

  • 地蔵堂
    地蔵堂 
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住所
〒819-0168 福岡県福岡市西区今宿駅前1丁目10番 標高:5.4m MAP
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歴史

地蔵堂に掲示されている由緒書きを下に掲示する。 (作者が一部省略しています。段落・句読点も作者が適宜挿入しています。)

当 地蔵堂 由来

享保17年1732、九州中国地方に大虫害((いなご)浮塵子(うんか)等)発生して稲田は白くなって全く実らず大凶作となる。 幕府は関東北陸中部の各地方から米の移送を命じたが難民を救う事が十分出来ず人は草根を堀り木皮を削って食した。 富者は倉を開いて難民を救ったが之又十分でなく、その上悪疫が流行して筑前国の人口367、800人中の死亡者96、700余人、肥前佐賀では12万余人の死者という。 又当時博多の人口19、000人が6年後の調査で13、000人と減っていた。

黒田藩では横浜にあった藩の仲出倉を開いて遠近を問わず与えた。 依って救いを求めて来る者無数で飢えながら来た者は疫病も加わり死ぬ者非常に多く、その中 当村の者は共同墓地に埋葬したが流浪人にして村の西方での死亡者は上町端れに合葬して観音堂[1]を建て、 東方の者は此處に合葬して地蔵堂を建立した。 後、怡土志摩早良の郡代が出張して来て徳正寺に多数の僧侶を招いて大供養をなし50年祭、100年祭の大祭があったが明治維新の改革と共に150年祭以降の弔祭は挙行しなかった。

尚、1300年前頃までは小学校[2]の下辺まで即ち今宿の平地は殆ど海であったがこの松原の地は2000年前位の弥生時代の甕棺が数個発掘されたのでずっと昔から長い砂丘であって人の生活の場であったと思われる。

昭和44年6月 文責 井原八郎識之
寄贈 福田孝明
平成27年7月 筆耕 中上翠紅

「糸島東部八十八ヶ所第36番 今宿松原 本尊:地蔵菩薩」の掲示あり。

ひとくちメモ

地蔵堂は施錠されており、扉の格子越しの参拝となった。 扉の格子から内部を覗くと、中央に地蔵菩薩、向って左手に薬師如来、右手に不動明王が安置されているようである。 境内には、藤棚・エノキの古木・存在感のある書体の庚申塔などがみられる。

地蔵堂の門前は旧唐津街道、裏手は博多湾である。 ここの海岸からの眺めもなかなかのものである。 門前は作者は数えきれないほど通っているが、この地蔵堂は神社だと思いいつも素通りしていた。 ネットで検索していて偶然、この地蔵堂の存在を知った。「灯台下暗し」。

写真

  • 地蔵堂の扁額
    地蔵堂の扁額 
  • 祭壇
    祭壇 
  • 境内風景 - 地蔵堂を背にして撮影
    境内風景 - 地蔵堂を背にして撮影 
  • 水盤と石塔
    水盤と石塔 
  • 庚申塔
    庚申塔 
  • エノキの古木
    エノキの古木 
  • 札所の表札
    札所の表札 
  • 石段
    石段 
  • 門前の唐津街道
    門前の唐津街道 
  • 案内板
    案内板