仏旗 大凉山(だいりょうざん) 少林寺(しょうりんじ) 浄土宗  SYOURINJI TEMPLE 黒田長政夫人(栄姫)の墓所伊藤氏参拝済

  • 本堂
    本堂 
  • 少林寺 - 『筑前國属風土記付録』挿絵
    少林寺 - 『筑前國属風土記付録』挿絵 
少林寺・安国寺・性雲院・妙蓮寺・御会所(巻之1福岡)
少林寺・安国寺・性雲院・妙蓮寺・御会所(巻之1福岡)
『筑前名所図会』
住所・電話
〒810-0001 福岡県福岡市中央区天神3丁目6-14 標高:7.1m MAP GMAP 092-741-8563
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【天神】殿様になるはずだった黒田綱之の墓がある少林寺 - 【Y氏は暇人】

歴史

境内の案内板の内容をそのまま記載する。

慶長9年1604福岡藩主黒田長政公によって約3000坪の広大な寺地に本堂・開山堂・観音堂・霊堂・子院として性雲院 を建立、長誉恵順和尚を開山の僧とし、永長山昌林寺と号した。

徳川家康の養女、長政公夫人(栄姫)が江戸で没され、遺髪を当寺に埋葬し菩提所となり、 山号も夫人の法名の大凉院からとって大凉山と改め、後に昌林寺も少林寺となる。

中興開山興誉上人の頃、福岡藩上席寺院として、 触頭(ふれがしら)という寺格を持っていた。

しかし昭和5年の火災、昭和20年の福岡大空襲で共に建物一切の寺宝は焼失した。

さらに戦後の区画整理によって寺地縮小・墓地改葬、昭和28年から4ヵ年かけて本堂・ 山門・納骨堂・総檀家の墓を建立、平成14年には、信徒会館・納骨堂を増改築した。

山内には、長政夫人の五輪塔・長政の二女の笠付角柱塔・綱之等の墓塔がある。

秋月の秋月山浄土院 大凉寺も栄姫の菩提寺である。 栄姫は秋月藩初代藩主黒田長興(くろだながおき)1610-1665の母でもある。

右の『筑前名所図会』で手前が少林寺、奥が安国寺である。

参考:「境内案内板」及び『ぶらぶら福岡まちあるき~歴史さんぽ編~』より、『筑前國続風土記

ひとくちメモ

門前は親不孝通りである。 その昔、この付近にはいくつかの予備校があり、多くの予備校生が通っていたのでこの名前がつけられた。 現在も居酒屋・レストランなどが密集しており人通りが多い。

写真

  • 本堂の扁額
    本堂の扁額 
  • 全景
    全景 
  • 門前の風景
    門前の風景 
  • 石碑、門柱
    石碑、門柱 
  • 石碑
    石碑 
  • 境内の石仏様たち
    境内の石仏様たち 


「境内案内板」及び『ぶらぶら福岡まちあるき~歴史さんぽ編~』より

伊藤氏メモ境内には黒田長政夫人(栄姫)・黒田長政の次女(徳姫)・3代藩主黒田光之の長男(綱之)・11代藩主黒田長溥の四女(種姫)・3代藩主黒田光之の七男(正太郎)・6代藩主黒田継高の側室(逸姫)・3代藩主黒田光之の側室(吉良)の墓石がある。 黒田綱之は光之の嫡男でありながら、突如として廃嫡され、屋形原(現在の南区)に幽閉された。綱之は死に臨み、「自分の願いは叶えられなかったが、私の墓に真心を込めて祈るならば、願い事を叶えてやる。」と言い残して没したので、多くの人々が綱之の墓に参拝して願い事をしたそうである。その際に人々は墓石を削り取って、舐めたり煎じたりしたため、現在の墓石の高さは元の高さの4分の1程度になっていると伝えられている。なお、綱之が謹慎を命じられた場所は謹慎した館があったということから現在「屋形原」という地名になっている。また、館には花がたくさん植えられていたそうで、その場所は「花畑」という地名になっている。現第26世。(本堂右側にある案内板ほかによる)

また、案内板には、合わせて「お墓は境内の奥にあり、寺の建物で隔てられた所にありますので、管理上申し訳ありませんが一般の方のご見学はご遠慮いただいております。」と記載されているが、本堂左脇奥の方に行くと、信徒会館から本堂に行く通路のガラス窓越しにこれらのお墓を見ることができる。また、長政夫人栄姫の墓石である五輪塔については、本堂の左奥から以外にも、いったんお寺を出て本堂裏側にある駐車場に行くとその上半分程度を見ることもできる。

山門を入ってすぐ左手には、加藤司書らとともに筑前勤王党として活躍した幕末の志士・月形洗蔵とその父、祖父の月形3代の墓が並んである。真ん中が祖父・鷦窠(しょうか)、右が父・深蔵、左が洗蔵の墓である。(『ぶらぶら福岡まちあるき~歴史さんぽ編~ 』より)()

筑前國続風土記』巻之3 福岡福岡の項

少林寺浄土宗鎮西派

鍛冶町の西の方にあり・ 大凉山と號す。 初は永長山と云、長政公の布陣を此寺に葬り、 法號を大凉院と號す。 是よりして大凉山と改む。 京都知恩院の末也。

開山長譽惠順和尚と云。 下総國香取郡一分目(いちわけめ)村の人也。 此僧或時綸旨(りんじ)頂戴のため上洛せし折節、 遠州天竜川の渡にて長政公に逢ぬ。 其人となり常人に異なりしにや。 長政の船によびたまひ、 對談せられしが、慶長8年16036月に當國に下り、同9年4月に寺地を乞請て、 佛殿を建立し、昌林寺と號す。 後に昌の字を改て少の字を用ゆ。

寛永12年1635正月12日、長政公の夫人江戸にて逝去したまふ。 遺體をば天徳寺[1]に土葬す。 遺髪を下して、此寺に納め、(かり)の墓とす。

同13年、忠之公より、100石の寺産を寄附せられる。 台徳院君[2]の御位牌を、忠之公より立たまふ。 又忠之公の妹榊原式部忠次の内室、寛永2年1625正月9日、 江戸にて卒し給ひ、天徳寺に葬り、梅雲院と號しける。 其位牌并其(かり)の墓も此寺にあり。性雲院と云子院あり。

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