仏旗 清賀山 正覚寺(しょうがくじ) [油山観音] 臨済宗東福寺派★★★  SYOUGAKUJI ZEN TEMPLE 九州西国霊場第30番札所 筑前国中三十三観音霊場第10番札所 百八観音霊場第105番札所 紅葉 シャクナゲ 菩提樹 除夜の鐘を撞ける 清賀 坐禅 十六羅漢 油山粥開きひばり観音供養祭月例観音祭油山市民の森 福岡三観音 三大観音 伊藤氏参拝済

  • 観音堂
    観音堂 
  • 16羅漢石仏達 - 享和元年(1801年)大神九郎次氏より寄贈されたもの
    16羅漢石仏達 - 享和元年(1801年)大神九郎次氏より寄贈されたもの 
  • 荒平古城・油山正覚寺 - 『筑前國続風土記附録』(中)挿絵
    荒平古城・油山正覚寺 - 『筑前國続風土記附録』(中)挿絵 
東油山町(巻之3早良郡)
東油山町(巻之3早良郡)
『筑前名所図会』
住所・電話
〒814-0155 福岡県福岡市城南区大字東油山508  MAP 092-861-4006
関連寺院(※過去に関連していた寺院も含みます。必ずしも現在関連している寺院とは限りません。)
周辺の寺院
同地区同宗派検索  4km以内の寺院検索
Links
「油山観音について」|石橋製油株式会社
【福岡】油山の名前の由来になったお寺 - 【Y氏は暇人】
【福岡市】美空ひばりの観音像が油山に?! - 【Y氏は暇人】

寺宝

  • 清賀上人像(西島伊三雄 画)
  • 聖観音座像(国重要文化財指定)
  • 文殊菩薩像(伝・狩野探幽 筆)
  • 雲雀(ひばり)菩薩像(松尾宇田 作)
  • 十六羅漢石仏(油山十六景の起源)

行事

  • 油山粥開き・・・・・2月1日午前11時より
  • ひばり観音供養祭・・6月24日正午より
  • 月例観音祭・・・・・毎月17日正午より

※行事はどなたでも参加自由とのこと。

歴史

正覚寺の寺伝では清賀上人(せいがしょうにん)が開いたとあるが、『筑前國続風土記』巻二十一によれば、 清賀上人は聖武天皇(在位:724-749)の時代に油山に住んで油を製造していてその為に山は開いたが、 本来の意味での開山は、時代は下って正覚寺の場所にあった東油山泉福寺の開山である 平田慈均(へいでんじきん)和尚[1]であると言ったほうが良いように考えられる。 東油山泉福寺開山は平田和尚の在世期間から類推し14世紀半ば頃と思われる。

平田和尚はそれまで法相宗であったのを禅宗に改宗した。

東油山泉福寺は往時は360の僧坊を抱えていたと言う。それがおそらく戦火にかかって焼失してしまい、 本尊である観音様の像と茶堂のみ残ったのであろう。

その後、寺伝のとおり元禄7年1694承天寺の住持大川禅師が跡地に現在の正覚寺を興した。 正覚寺の名前は当時志賀島にあった廃寺[2]であった寺の名前を借りて命名されたと言う。

下に境内の案内板の内容をそのまま記す。

寺伝によると、大和時代に清賀上人(せいがしょうにん)が白椿に千手観音(せんじゅかんのん)を刻んで安置して寺を開いたといわれる。 また灯油の製法が知られていなかった時代、椿の実を絞って油による灯火の法を開いたといわれ、これが油山の名の起こりとなっている。

その後、多くの寺が建ち、仏教文化の中心となって栄えたが、天正年間1573~1591の兵火で消失し、 元禄7年1694再中興(さいちゅうこう)された。

寺宝には、 木造聖観音坐像(もくぞうしょかんのんざぞう)(重要文化財)、 大川円詢像(だいせんえんじゅんぞう)(絵師。狩野友元重信)、 釈迦十六善神(しゃかじゅうろくぜんしん)(室町時代) がある。

平成6年には、雲雀(ひばり)観音堂が新しく完成した。

[1]承天寺の開山である聖一国師の4代目の法孫で在世期間は(?-1364)。

[2]入部村重留(福岡市早良区重留)にあった廃寺という説もある。(『油山の歴史と伝説』)

参考資料はこちら。

正覚寺の梵鐘

伊藤氏メモ鎌倉時代に造られた正覚寺の梵鐘は、現在山口県の防府天満宮にあり、国重要文化財の指定を受けている。正覚寺ではしばらく小さな梵鐘を使っていたが。昭和60年198511月に京都から大鐘「幸福の鐘」が届き、紅葉の中おごそかに落慶式が行われた。また、鐘楼堂は平成5年1993春に改築された。(『福岡歴史百景 』より)()

ひとくちメモ

城南区油山の中腹に伽藍を構えている。境内には美空ひばりを祀った「ひばり堂」もある。 正覚寺の周辺は自然で一杯である。交通の便は悪いが一度足を伸ばしてはいかが?

鐘楼も自由に(多分)叩くことができます。 ただし、お賽銭は入れてください。

境内には美空ひばりを祀ったひばり観音堂がある。 また、観音堂前の石段脇から坂道を登った所には坊住跡がある。

伊藤氏メモ慣れない坂登りで苦労しました。この日は、2月というのに時期外れの最高気温20度という春のような気候で、 汗だくだくのお参りとなりました。 美空ひばりの雲雀観音堂の中にある美空ひばりの写真はほんといい笑顔をしていますね~。ほんとうにステキな表情です。 この観音堂には面白い趣向が。ひばりの歌声が聴けるのです。 代表曲が10曲ピックアップされており、100円玉を入れると選んだ曲が流れてきます。 私は[川の流れのように]を選びました。屋外で、しかも眼下には福岡市内が展望できる広々とした空の下で、 隣近所に遠慮することのない大きさの音で流れてくるひばりの歌声は最高でした。()

写真

  • 観音堂遠景
    観音堂遠景 
  • 観音堂内
    観音堂内 
  • 本尊聖観音 - 境内の案内板より
    本尊聖観音 - 境内の案内板より 
  • 歴代塔婆(右より行基和尚・清賀上人・平田和尚
    歴代塔婆(右より行基和尚・清賀上人・平田和尚 
  • モミジ越の観音堂
    モミジ越の観音堂 
  • 観音堂
    観音堂 
  • 庫裏 - 観音堂から撮影
    庫裏 - 観音堂から撮影 
  • 新羅式石門-黒田忠之公建立の桜門跡に明治23年(1890)古代朝鮮から渡来した石門作りの技法で建立されています。この石門は一人の修行僧が精魂こめて作ったもので、本来三層の屋根が二層になっているのは建造中力尽きその結果の作と言われています。(案内板より)
    新羅式石門-黒田忠之公建立の桜門跡に明治23年(1890)古代朝鮮から渡来した石門作りの技法で建立されています。この石門は一人の修行僧が精魂こめて作ったもので、本来三層の屋根が二層になっているのは建造中力尽きその結果の作と言われています。(案内板より) 
  • 観音堂脇の石仏
    観音堂脇の石仏 
  • 観音堂脇の石仏
    観音堂脇の石仏 
  • 参道口
    参道口 
  • 参道の石像
    参道の石像 
  • 参道
    参道 
  • 参道
    参道 
  • 参道の不動明王
    参道の不動明王 
  • 観音堂前の石段
    観音堂前の石段 
  • 観音堂前の石段脇の石碑
    観音堂前の石段脇の石碑 
  • 観音堂前の石段
    観音堂前の石段 
  • 新羅式石門
    新羅式石門 
  • 十六羅漢
    十六羅漢 
  • 十六羅漢
    十六羅漢 
  • 鐘楼
    鐘楼 
  • 梵鐘「幸福の鐘」
    梵鐘「幸福の鐘」 

ひばり観音

  • 雲雀堂
    雲雀堂 

境内の案内板の内容を引用する。

ひばり観音の由来

ひばり観音とは、平成元年6月24日、多くの人々に愛され、惜しまれながら、52歳 で亡くなられた偉大な国民的歌手、美空ひばりさん(女性ではじめての国民栄誉賞を受賞) の歌「悲しい酒」を平成3年2月、福岡市在住の彫刻家、 松尾宇田(まつおうでん) さんが、ラジオから流れてきたのを聴き強く感動、ひばりさんの魂に触れたような気がし 、その気持ちを像として表すことを決意、「悲しい酒」を繰り返し歌い、そして涙を流しながら、 四五晩夜を徹して制作、一気に作り上げ「ひばり観音」と命名された。

またここ福岡の地は、済生会福岡総合病院で、一度は命をとりとめたり、 多くのファンに埋め尽くされた公演場所など、縁の深いところでもあります。

その福岡市街や博多湾を一望する景勝地.油山観音正覚寺に奉納され、 石こう像として公開、同年六月二十四日のひばりさんの命日には参加 者全員で名曲「川の流れのように」を合唱し、つづいて焼香、開眼式と三回忌法要 を厳修、同時に”ひばり観音を守る会”も結成された。

その後、石こうの乾いた平成四年一月、松尾さんを始め、ひばり観音を 守る会のメンバーで話し合い、この像を基に富山県高岡市の原型師に依 頼、美人で慈愛と品位に満ちた、美空ひばり観音立像(蓮台も書めて高さ 六十八センチ重さ十五キロ)の未来永劫の菩薩が青銅で遂に完成、同年 四月二十九日お厨子に納め、魂移しを謹修、六月二十四日のひばり観音 供養祭から、一般公開された。

さらに、全国の五百三十九名、六百四十四万三干三百三十三円のご喜 捨により、平成六年十一月十一日.京都大本山東福寺派管長を導師に 雲雀堂(ひばりどう)が落成した。

私たちに大きな夢と希望を与えて下さった、不死鳥、美空ひばり(本名 加藤和枝)さん法名、慈唱院美空日和清大姉 霊位どうぞ安らかに、そし てファンはもとよりひばりさんのように、人の琴線に触れるような歌手を 目指す人たちの、心の支えにも成ればと希望しています。

-- ひばり観音を守る会 --


坊住跡

設置されている案内板の内容を下に記す。

坊住跡

敏達天皇(びたつてんのう)の勅願により東西油山に720の僧坊(勉強部屋)が建立されたが、戦国時代(天正の頃)龍造寺隆信との戦いで兵火に見舞われ、 全山灰燼に帰した。現在油山観音正覚寺参道左側檜林に僧坊の一つで石垣のみが残っている。

  • 石組跡
    石組跡 
  • 石組跡
    石組跡 
  • 石組跡
    石組跡 
  • 石組跡付近の杉林(白いものは案内板)
    石組跡付近の杉林(白いものは案内板) 
  • 僧坊跡へ通じる石段(参道脇)
    僧坊跡へ通じる石段(参道脇) 
  • 僧坊跡へ通じる石段
    僧坊跡へ通じる石段 
  • 僧坊跡へ通じる石段
    僧坊跡へ通じる石段 

参考資料

伊藤氏メモ寺伝によると、油山観音正覚寺の開山は西暦572年に天竺(インド)から渡来した清賀上人である。また、ここの観音様には次のような言い伝えがある。 清賀上人は油山の白椿の大木から仏像を3体お造りになり、一体がここ油山観音、他の2体は西区光明寺の小田観音と糸島市千如寺の雷山観音という。

往古の油山は天皇勅願で、七堂伽藍を備え、東と西の油山に720もの僧坊を持つ大寺院であった。南北朝時代には浄土宗の二祖で、後に鎮西派開祖となった鎮西上人1162-1238が座主の頃は、学徒席を争うほどに繁栄したという。このように油山は仏教文化の一大法域であったらしい。

また、延元2年1337平田慈均禅師が座主の時代に油山の東西の坊を統一した。しかし、天正年間1573-1592に佐賀の龍造寺の兵火で寺は焼失したが、聖観音・不動明王・毘沙門天・龍樹権現などの木造仏だけは難を逃れたという。

黒田長政公が筑前に入府後の慶安3年(1650)、2代藩主の黒田忠之公が観音堂・拝殿・楼門を再建、寄進した。また、宝暦7年1757と寛政元年1789には本堂と拝殿の修復をするなど、藩主の篤い庇護を受けた。

現在の本堂は昭和45年1970承天寺の大道圓明禅師が兼務の頃に建立されたものである。

(『筑前の寺めぐり 』より)()