heritage 志賀海神社(しかうみじんじゃ) 神道 ☆☆☆ 宝篋印塔 伊藤氏参拝済

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〒811-0323 福岡県福岡市東区志賀島877   標高:19.1m 地図 GMAP 092-603-6501  ホームページ
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歴史

記録上は天平3年(731年)の日付の『住吉大社司解(住吉大社神代記)』に「那珂郡阿曇社三前」や「志賀社」として記載が見える。 社伝では、古くは志賀島の北側、勝馬浜において表津宮(うわつぐう)仲津宮(なかつぐう)沖津宮(おきつぐう)の3宮[1]から成っていた。 阿曇磯良(あずみのいそら)(阿曇氏祖)により、そのうち表津宮が志賀島南側に遷座して現境内となった。 仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている。その阿曇磯良は、神功皇后の新羅出征において舵取りを務めたとも伝えられる。

『筑前國続風土記附録』によれば、志賀島神社の社僧は吉祥寺、沖津宮と仲津宮の宮司も吉祥寺と記されている。 『筑前國続風土記』巻之五 那珂郡上の志賀海神社の説明の中に「社僧の坊を金剛山吉祥寺といふ。禅宗にして承天寺末寺也。昔聖一国師[2]いまだ天台宗たりし時、此地に来て法を説れしに、社人等帰依信仰して、別當坂本知家が男子宗学を(もっ)て、国師の弟子として宮司坊とす。其後国師入宋して禅宗に帰せられしかば、宗学も(また)禅宗となれり。故に承天寺の末寺たりと云。」とある。 Links① によれば、吉祥寺は明治元年(1868)、神仏分離で廃寺となり、吉祥寺を継承したのが志賀海神社南隣の荘厳寺であると考えられるという。

境内の石造宝篋印塔は貞和3年(1347)銘。塔身の4面には文殊・宝生・阿弥陀・不空成就の4仏の梵字が刻まれている。県指定重要有形文化財。

ひとくちメモ

作者は表津宮・中津宮・沖津宮はすべて未参拝。このうち、沖津宮は沖津島にあり、干潮のときは徒歩にて渡れるとのこと。 『筑前國続風土記拾遺』巻之8 那珂郡 下の勝間村の項で作者が讃えている。『拾遺』にしては珍しい叙情的表現である。 現在もこの風景が見れるのであれば、作者も一度参拝してこようと思う。

勝馬大明神(神殿方1間・拝殿方2間・祭礼2月16日・11月16日・宮司志賀島村吉祥寺)

(前略)沖津宮ともいふ。(中略)やしろは勝馬の西、海中一顆の山上にあり。 石階97級を登る。 宮所神さひ木立物ふりて奇秀の山上なり。 (中略) まことに俗塵の(けがれ)なければ、神威のおこそかなるは(むべ)也。 神代の古しへより跡をたれたまひ、香椎の廟三韓を征し給ふ時もあらはれ出たまひて、たすけ守り給へる事、国史に見え侍れは、最もたうとひうやまうへき御神也。 (もうで)て来る人心の(けがれ)をあらひそゝき、誠の志を生するハかゝる所なるへし。つゝしんでおろそかにおもふへからず。

写真

  • 神門
    神門 
  • 宝篋印塔(貞和3年(1347)銘)
    宝篋印塔(貞和3年(1347)銘) 
  • 志賀島港 - 境内より撮影
    志賀島港 - 境内より撮影 
  • 志賀大明神社図(志賀海神社。赤丸の地点に吉祥寺) - 『筑前國続風土記附録』巻之8より引用
    志賀大明神社図(志賀海神社。赤丸の地点に吉祥寺) - 『筑前國続風土記附録』巻之8より引用 
  • 勝馬明神社図(左上の赤丸に沖津宮、左下の赤丸の地点に中津宮、右の赤丸内に表津宮) - 『筑前國続風土記附録』巻之8より引用
    勝馬明神社図(左上の赤丸に沖津宮、左下の赤丸の地点に中津宮、右の赤丸内に表津宮) - 『筑前國続風土記附録』巻之8より引用 

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脚注