heritage 節信院(せっしんいん) 臨済宗妙心寺派 ☆☆☆ 伊藤氏参拝済 加藤司書の墓所 博多寺町コース第11番

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〒812-0037 福岡県福岡市博多区御供所町11-20   標高:7.1m 地図 GMAP 092-281-4182 
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歴史

聖福寺塔頭(たっちゅう)寺院である。

福岡藩の倒幕派の中心的な立場にあった家老加藤司書の菩提寺である。 裏手にある案内板に詳しく書かれている。その内容を本ページの最下部にそのまま記す。

伊藤氏メモ『福岡寺院探訪』に次のような記載がある。()

開基は、黒田藩の家臣加藤重徳(法名:節信院實翁宗是居士)にて、開山を月庭禅師という。 重徳は黒田孝高(官兵衛)に従い九州へ下り、その後代々黒田家の重臣として仕える。 住職の話によれば、重徳の子(一成)は、黒田家の養子となり黒田一成と名乗り、 黒田二十四騎の一人として活躍した。また、「皇御国の武士はいかなる事をか勤むべき」の筑前今様の作者で知られる勤皇家の加藤司書は、 佐幕派によって切腹を命じられ自刃、当寺に埋葬された。 切腹当時の血染めの衣類 が当寺に残っていたが、戦災にて焼失した。寺内には、加藤家の菩提寺として一族の墓がある。

ひとくちメモ

聖福寺の裏手にひっそりと伽藍を構えている。

写真

  • 全景
    全景 
  • 本堂の扁額
    本堂の扁額 
  • 本堂-2013博多ライトアップウォークにて
    本堂-2013博多ライトアップウォークにて 
  • 観音像
    観音像 

裏手の案内板の内容

幕末の勤皇の志士 加藤司書公(墓所)

加藤司書公は、天保元年(1830)3月5日城門前上の橋堀端で出生。 加藤家11代当主として2800石の家督を継ぎ、中老職となる。 先祖の加藤重徳は、荒木村重のため地下牢に投じられた黒田如水(官兵衛)を救出した功で代々中老職に列せられる。 重徳次男の一成[1]は、甘木三奈木16000石を賜り、黒田24騎の一人として活躍した。

司書24歳の嘉永6年(1853)7月ロシア海軍プチャーチンが来港した時、藩兵500余人を指揮し長崎を警護、 同艦隊を無事国外に立ち去らせ、異国との紛争回避に努力した功績は多大であった。

次に長州征伐解兵のために活躍した。 元治元年(1864)の池田屋事件・禁門の変、更に幕府は、前尾張藩主徳川慶勝を総督として36藩を動員し、 長州を討とうとした為、長州征伐まで戦火が拡大した。

この時広島に各藩の藩兵が参集、司書は黒田藩を代表し薩摩の西郷と共に長州の恭順を条件に長州征伐の解兵を成功させた。

司書はこの時の成功を喜び、広島の宿において作った今様は、次の通りである。

皇御国(すめらみくに)武士(つわもの)は いかなる事をか勤むべき ただ身にもてる 赤心(まごごろ)を 君と親とに(つく)すまで

その後長州にいた五卿を九州太宰府延寿王院[2]に請じ、太宰府は五卿を中心に尊王運動の策源地とする薩・長・筑三藩連合を打ち立てた。 次に司書は、諸外国侵攻の危機を解消するため、 万一の場合藩主を鞍手郡犬鳴の別館に移すべく工事を急いだが、この事が佐幕派の人々の扇動により反逆の疑いをかけられ、 遂に慶応元年(1865)十月乙丑(いっちゅう)(ごく)の大弾圧となり、 切腹を命ぜられ、36歳をもってその生涯を終わった。

司書公の霊は、加藤家の菩提寺節信院に眠る。

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脚注