bukki 登志山(としざん) 誓願寺大泉坊(せいがんじだいせんぼう) 真言宗御室派 ★★☆ 栄西 火渡り 毘沙門天祭 伊藤氏参拝済 孔雀文沈金経箱 誓願寺盂蘭盆縁起 銭弘俶八万四千塔 毘沙門堂(奥の院) 怡土志摩五佛第5番 怡土志摩五佛第5番 糸島東部八十八ヶ所霊場第61番 九州八十八ヶ所百八霊場第83番札所

住所・電話
〒819-0165 福岡県福岡市西区今津851   標高:22.6m 地図 GMAP 092-806-2698 
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歴史

境内の案内板の内容をそのまま記す。

この寺は、筑前怡土(ちくぜんいと)志摩(しま)両郡の荘園であった怡土荘の豪族仲原(なかばら)氏の娘の発願(ほつがん)で、 安元元年(1175)に、渡宋のためこの地に赴いた栄西(ようさい)(1141-1215)を招いて創建されました。

日本の臨済宗の開祖である栄西は、比叡山で天台の教義を学び、二度の渡宋により臨済宗を伝え帰ったことで有名です。

栄西は、二度目の渡宋の前、宋版一切経(そうはんいっさいきょう)の渡来を待って本寺に十数年間滞在し、 その間に数々の著述を行いました。なかでも「誓願寺盂蘭盆縁起(せいがんじうらぼんえんぎ)」は、 栄西筆の書として国宝に指定されています。

この地、本寺には中国の呉越国(ごえつこく)(907~978年)から分与された「銭弘俶八万四千塔(せんこうしゅくはちまんよんせんとう)」、 元からもたらされた「孔雀文沈金経箱(くじゃくもんちんきんきょうばこ)」など、対外交流を裏付けるものが多数伝えられています。 これらは、いずれも国の重要文化財に指定されています。

平成14年(2002)3月

伊藤氏メモ東大寺再建で有名な俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)和尚も当寺に滞在したといわれている。(Links① より)()

伊藤氏メモ山号登志山の登志とは、当寺所在地である今津の古称である。[1](Links⑤ より)。()

伊藤氏メモLinks② に次のような記載がある。()

堂内には創建当時のものと思われる幾体もの古い仏像が安置されていて、いかに当寺が由緒深き寺であるかを物語っている。元寇の頃には、本尊は他の場所に移されていたのではなかろうかと住職は言う。現本堂は昭和50年(1975)の初め頃の建立。

参考:『筑前國続風土記』『筑前國続風土記拾遺』

ひとくちメモ

誓願寺大泉坊は、今津の毘沙門山の麓に伽藍を構えている。 門前はのどかな田園地帯である。 境内はかなり広い敷地に本堂・大師堂・白山大権現社などがある。 この裏山の毘沙門山(標高:約120m)頂上付近の毘沙門堂(奥の院)からの眺めは絶景である。

伊藤氏メモそういった品種なのでしょうか? それとも異変咲きなのでしょうか? 山門前に1本だけですが、まだまだ早い桜が咲いていました。 ()

写真

  • 大師堂内部
    大師堂内部 
  • 絵馬(「慶應四歳□辰(1865)五月吉祥日」銘。牛が活き活きと描かれている) - 大師堂内部
    絵馬(「慶應四歳□辰(1865)五月吉祥日」銘。牛が活き活きと描かれている) - 大師堂内部 
  • 白山大権現社
    白山大権現社 
  • 白山大権現社より境内を望む
    白山大権現社より境内を望む 
  • 大日如来像と延命地蔵尊像
    大日如来像と延命地蔵尊像 
  • 駐車場の片隅にある古い石塔群
    駐車場の片隅にある古い石塔群 
  • 境内より西側の風景(写真中央に可也山が見える)
    境内より西側の風景(写真中央に可也山が見える) 
  • 遠景(後の山が毘沙門山)
    遠景(後の山が毘沙門山) 
  • 三界萬霊塔
    三界萬霊塔 
  • 仁王像
    仁王像 
  • 境内のネコちゃん
    境内のネコちゃん 

年間行事

どなたでもご自由にお参り下さいとの事。

初毘沙門天祭(奥之院)正月2日 17:00〜護摩
正月3日 11:00〜
節分会護摩祈祷2月3日 13:00〜
土砂加持法要(先祖・水子供養)5月15日 10:00〜
夏越護摩祈祷8月2日 11:00〜
同 20:00〜
柴灯護摩(火渡り)11月第3日曜日 13:00〜写真がここにあります。
月例護摩(於本堂)毎月2日 11:00〜但し正月・2月は別
同 20:00〜
奥之院例祭毎月1日 11:00〜
毎月18日 11:00〜

柴燈護摩(火渡り)

僧侶入場
僧侶入場 
お祓い
お祓い 
土手でお祓いの矢を拾おうとしている子供達(右手の男児の頭上に矢)
土手でお祓いの矢を拾おうとしている子供達(右手の男児の頭上に矢) 
点火
点火 
火が燃え始める
火が燃え始める 
段々強くなる
段々強くなる 
さらに強くなる
さらに強くなる 
導師(誓願寺住職・写真中央の赤い法衣の方)
導師(誓願寺住職・写真中央の赤い法衣の方) 
炎は最高潮
炎は最高潮 
火がおさまり、最初に火渡りする僧侶
火がおさまり、最初に火渡りする僧侶 
最初に火渡りする僧侶(拡大・両手で様々な印を結ぶ)
最初に火渡りする僧侶(拡大・両手で様々な印を結ぶ) 
火渡り(いつもながら緊張します)
火渡り(いつもながら緊張します) 
火渡り
火渡り 
火渡りを見守る不動明王
火渡りを見守る不動明王 
結界の隅に飾ってあった鬼門除けの飾り(「貴門」と書いてある・大変貴重な物を頂戴しました。)
結界の隅に飾ってあった鬼門除けの飾り(「貴門」と書いてある・大変貴重な物を頂戴しました。) 
御札(各自これを持って火渡りする)
御札(各自これを持って火渡りする) 

、当寺の火渡りに初参加してきました。 火を渡る時はいつも緊張します。

同じ今津の金千寺の住職も山伏装束で参加されていました。 写真は時系列に掲示しています。


『筑前國続風土記』巻之23 志摩郡

誓願寺(巻之10志摩郡)
誓願寺(巻之10志摩郡)
『筑前名所図会』

○誓願寺(真言宗)

登志山と號す。今津に在。 縁起に云、此寺は仲原氏の女所願にて、其夫寛智と云し人の建立せし所也。 其女始34歳にして、深く仏道に志を極め、叉六刻彫の誓を発し、 方丈建立の願を企けるに依て、誓願寺と名號す。

其始、高倉院喜應2年(1172)5月[2]、始て願を発して、三種の誓を立。 一には丈六阿弥陀像をつくるべし。 二には大般若を(うつす)べし。 三には法華持者千人を供養すべしと誓ひしに、其誓ひ空からず、 承安元年(1171)10月、 周防(すおう) 國小縣杣人を呼て、材木を山上に切せ、 同二年夏秋に至て、材木を運び取ること終り、 同三年三月、佛像造立の斧初して、5月28日に作り終ぬ。 安元元年(1175)10月23日、成就して供養の素懐を遂げ終ける。

叉明庵僧正(榮西也。)仁安3年(1668)入宋して、同年の秋帰朝しけるが、 宋朝の蔵経を望事切なるに依て、 安元2年(1176)より治承2年(1178)迄の間此寺に住して、一切経の渡海するを待ける。 (此津は異国の商船来集る所なれば、其来り賣を此時待て、買んとの事なるべし。 榮西(いまだ)禪宗に帰せず、真言宗なり。) 然に志有輩に。7月15日盂蘭盆(うらぼん)供養の為に、法華一品經を書寫事をすゝむ。 彼開基檀那寛智其教を受、諸人を(すすめ)、心を同して、是を書寫けるより、 毎歳7月15日に至毎に、必此事を修するとぞ。 (巳上縁起の説也。此縁起は榮西の作れる所ならし。)

此寺衰るに及で、かゝる事絶果ぬ。 榮西此寺に住せし間、仁王門を作りけるが、其門は元和の初(1615)、大風に吹倒されぬるを、 近き比、村民力を合て、新に仁王門を建たり。

毘沙門堂をも榮西是を作れり。 此堂は村より北の高き山に在て、今に存せり。 (三間四方の堂也。)

古昔は寺領多く有けるとかや。 此寺に院懬下文、将軍及領主地頭の寄進状等甚多く伝れり。 (ことごと)く記すにいとまあらず。 原田信種高祖の城主たりし時迄、猶寺領を寄附せり。 其後寺領なく、昔は此寺の子院42坊有しが、中比漸廃して、24坊に成。 慶長年中(1596-1615)迄、猶12坊ありしが、今は(それ)さへ絶て、 だだ龍性院 大泉坊と云2坊残れり。 其余の諸坊は皆民の住家と成て、むなしく昔の名を留ぬ。 其寺の内に阿弥陀堂(三間四方)薬師堂(二間四方)残れり。 鎮守は白山権現にして二間三間の社也。 此社甚矮小なりしに、先國主忠之公、 國中に白山権現の社を建立有べきと議せられけるが、適々此寺に白山の社有し故、 是を再興有て拝殿かたのごとく作らせらるる。 今は拝殿は亡ぬ。

寺に天神の御筆の心経、弘法筆跡、榮西の状数通有。 (凡天神の御筆書は、既に偽書のみ多しと其事記ぬ。) 十王の掛絵10幅有。 明朝の陸信忠が筆也。賛も有。叉榮西宋より持来りし三具足(みつぐそく)有。 花瓶、灯壷、香炉也。 銘には十松院とあり。 十松院と云脇寺に持傅へし物にや。 榮西持ける独鈷も有。

此寺禪寺にあらざれども、榮西入宋の時、 往来此所に寓居せられし故、彼僧の文書(ここ)にあり。

『筑前國続風土記拾遺』巻之48 今津村并に浦

誓願寺図(左手に勝福寺、右下に寿福寺が描かれている) - 『筑前國続風土記附録』(下)挿絵
誓願寺図(左手に勝福寺、右下に寿福寺が描かれている) - 『筑前國続風土記附録』(下)挿絵 

誓願寺

毘沙門山の麓にあり。 往昔の寺院は廃絶し今其子院大泉坊のみ残りて登志山誓願寺大泉坊と号す。 真言宗なり。 寛文年中(1661-1672)より京都仁和寺に属す。

境内に鎮守白山権現社(此社高樹公の再興なる事本編に出。但今祠ハ延宝中に村民造替せしといふ。) 又阿弥陀堂(坐高4尺5寸今堂破壊しける故本尊を大泉坊に置り。正元元年(1259)梶取長日((ママ))檜是光阿弥陀免田2町を請解状有。1間4面の堂舎と有。此堂の事成へし。坪寸志摩郡とあり。下文あり。) 薬師堂(坐像長2尺5寸傍に小佛多く有。堂の後に温泉址有。) 又山上に毘沙門堂有。 此山形圓にして海上に突出したれば遠方よりよく見え且登臨すれは眼境甚廣大にして良景なり。 此津異國舩の来集ひしかハ異賊防禦の祈の為に毘沙門を祀たるなるへし。

古しへの誓願寺は嘉應の頃(1169-1171)仲原氏の女発願にて安元元年(1175)佛堂造立成就せり。

又其頃千光國師栄西此寺に寓居せられし事有。 其間に毘沙門堂ニ王門等を造れリ。(ニ王門ハ大泉坊の西1町にあり。)

古寺領附て下文寄進状(原田信種寺領を寄附せりと本編に見えたれと其書今ハなし。)等多く傅ハれり。

子院42坊有。 金剛坊 龍性院 恵光坊 東光坊ハ近古(まで)あり。 (本編に今津に今も寺院12所有と見ゆるは此4坊(ならびに) 大泉坊 勝福寺 安養寺 萬徳寺 妙泉庵 桃林庵 法教寺 清教寺是なるへし。 又元亀中(1570-1573)社領坪付に法門坊 宝泉坊 宝蔵坊有。是も此寺の子院にて其比迠ありしにや。)

又寺宝に古筆の書画佛具なと有。 是等の品目本編に載て詳なり。 扨法華経箱の蓋裡に銘有。 「延祐2年(1311)[3]抗州油局棟梁禪主橋金家造」と誌せり。 (延祐ハ元仁宗の年号、二年ハ本邦花園帝正和3年なり。) 又銅造の舎利塔一基(高7寸)其製古雅なり。 相傅て千光國師宋國より傅来の物なりと云。 塔の裏に銘あり。 「呉越國王□□((アキ))敬造八萬四千寶□□□((アキ))記」と(4行16字内5字不明)あり。 (按に呉越国王ハ5代の時割據(かっきょ)12国の1にて姓ハ銭氏なり。 『楊文公談苑』に曰(云云)。呉越錢氏多因干海舶通信天台智者数500余巻有。録而多闕賈人言。 日本有之錢俶置書書於其國主奉黄金500両求寫基本盡得之訖。天台教大布江左と見えたり。皇朝天歴元年(947)此使来朝せり。 清慎公[4]返牒(へんちょう)[5]を報せらる。其文本朝文粹七巻に見えたり。錢俶佛を信する事 如斯(かくのごとく)なれハ此塔も俶か造れる物なるへし。)

関連寺社(※過去に関連していた寺社も含みます。必ずしも現在関連している寺社とは限りません。)

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脚注