仏旗 宝樹山浄土院 西方寺(さいほうじ) 浄土宗  SAIHOUJI TEMPLE 石城三十三箇所観音霊場第28番 菩提樹 伊藤氏参拝済

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  • 菩提樹の花
    菩提樹の花 
  • 菩提樹のつぼみ
    菩提樹のつぼみ 
住所・電話
〒812-0023 福岡県福岡市博多区奈良屋町10-11 標高:9.5m MAP GMAP 092-291-1228
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歴史

伊藤氏メモ寺伝によると、西方寺の開山は浄土宗第ニ祖聖光鎮西上人の弟子・良阿明源上人。 この上人は北条氏の出で、53歳のときに天台宗から聖光上人の浄土宗に転じた。 良阿明源上人は鎌倉初期の安貞元年1227、76歳のときに博多冷泉津あたりに一宇を創建し、西方寺とした。 そこには池があり、人々は西方寺柳ヶ池(楊ヶ池)[1]といい、池畔には薬師如来の石仏を祀ってあり、寺に良い霊地であった。 それは、明源上人のごく晩年のことで、上人はその4年後の寛喜3年1231に80歳で入寂した。

現在の明治通り呉服町交差点から天神方向へ、最初の左折ヶ所のビル(店屋町7-18、渡辺藤吉本店の入っている博多渡辺ビル)の前に「楊ヶ池神社跡」の石碑と説明板がある。西方寺もこのあたりにあったのであろう。

西方寺は室町時代の寛正2年1461に大火で焼失、永正年間1504-1521に現在地に移転した。西方寺の山門の横には江戸時代の町名「西方寺前町」と彫った石碑が立っている。(『筑前の寺めぐり』 より)()

福岡大空襲で本堂・庫裡・薬師堂・数々の寺宝など焼失したが、戦後鉄筋造で再建された。

参考:『筑前國續風土記付録』『福岡寺院探訪』より

ひとくちメモ

西方寺の東側の裏手には観音寺がある。 観音寺はその昔西方寺の塔頭寺院であったという。

伊藤氏メモ1227年、浄土宗知恩院の末寺として創建。 深さ23cm、底の直径33cmの大やかんが寺の名物であった。 室町期、博多に疫病が流行した際、住職が薬師如来の夢のお告げに従い、 薬草を大やかんで煎じて病人に飲ませたところ、疫病が鎮まったと寺に伝わる。 この故事にちなみ、江戸期に眼病を患った人が、寺の薬師如来に病気平癒を祈願。 治ったことを喜び、大やかんを寄贈した。 以来、夏祭りで参拝客に薬湯を振る舞ったという。 大正期に筑後地方の矢部川が氾濫、倒れた大クスで作った一木作りの大木魚もあった。 高さ1mほどであったという。 その後、大やかんは戦時中の金属類回収令で供出。大木魚も福岡大空襲で寺が全焼した際に焼失したらしい。(『博多 旧町名歴史散歩 』より) ()

写真

  • 本堂
    本堂 
  • 山門の扁額
    山門の扁額 
  • 山門の扉
    山門の扉 
  • 地蔵堂
    地蔵堂 
  • 地蔵堂内
    地蔵堂内 
  • 地蔵脇の石仏
    地蔵脇の石仏 
  • 菩提樹(山門をくぐってすぐ右手)
    菩提樹(山門をくぐってすぐ右手) 
  • 本堂にあしらわれて浄土宗の杏葉紋
    本堂にあしらわれて浄土宗の杏葉紋 
  • 門前の風景
    門前の風景 
  • 門前の風景
    門前の風景 


『福岡寺院探訪』より

伊藤氏メモ福岡寺院探訪』に次のような記載がある。()

開山を良阿明源(鎮西上人弟子)といい、安貞元年1227創建。 当寺も福岡大空襲で焼け、現在山門を入って右手にある地蔵尊だけが立っていたといい、 当時の住職がその焼け残った地蔵にすがりついて泣いたとは寺の話である。

『筑前國續風土記付録』巻之5 博多 中 西方寺前町

西方寺浄土宗鎮西 佛堂7間6間

宝樹山浄土院と號す。知恩院に属す。 開山を明源上人といふ。 筑後善導寺の開山聖光上人の法弟なり。 人皇85代堀川帝の御宇安貞元年の開基也といへり。 寺内に鎮守天満宮・薬師堂あり。 什物に大なる薬鑵[2]深さ7寸5分 底径1尺1寸あり。 世人これを西方寺の大薬鑵と云。 掛軸数幅あり。

[2]薬鑵:湯を沸かすやかんのこと。

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