heritage お綱さんの墓と枯野塚(おつなさんのはかとかれのづか) 史跡 ☆☆☆ 伊藤氏参拝済

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〒812-0054 福岡県福岡市東区馬出5丁目9-4   標高:4.6m 地図 GMAP
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歴史

境内は畳6-8畳ほどの狭さ。住宅に囲まれた一画である。この地にはお綱さん・その二人の子の墓碑と松尾芭蕉・郷土の俳人哺川の墓碑がある。

お綱さんと松尾芭蕉。歴史上ほぼ無関係の人物の墓が一箇所に同居している。 もともと同居していたのか、この近辺の宅地開発で両墓が寄せられてここに置かれたのかはわからない。

墓碑の配置関係
No.説明
お綱さんの墓碑
お綱さんの2人の子供の墓碑と思われる
芭蕉辞世の句碑と思われる
芭蕉の墓碑
哺川の墓碑

ひとくちメモ

記事を下記の順に書きます。

お綱さんの墓芭蕉翁の墓参拝経路

お綱さんの墓

  • お綱さんの墓碑(「圓通院義操妙綱大姉」)
    お綱さんの墓碑(「圓通院義操妙綱大姉」) 
  • お綱さんの墓碑(裏面、「寛永7」が読み取れる)
    お綱さんの墓碑(裏面、「寛永7」が読み取れる) 

お綱さんとは2代黒田藩主・黒田忠之(1602-1654)の側用人・浅野四郎左衛門の妻。2人の子供が居た。 彼女の最期の様子は概略下記の通り。

藩主から大阪から連れてきた芸者を下賜された夫は、その芸者にうつつをぬかし 家族(妻、お綱と2人の子)を蔑ろにするようになる。箱崎の下屋敷に住まわせる有様。下男を夫の元に向かわせるも追い返され、下男は自害。

お綱は2人の子を刺殺し、本宅の夫の殺害を企てるも、夫は登城中で留守。本宅に居た浪人に切りつけられ瀕死の状態となる。 乱れ髪、血だらけの身体をなぎなたで支えながら城へ向かうが城門にたどりつくも、門に手をかけたまま絶命。寛永7年(1630)桃の節句頃の事。(以上 Links① より)

その後、夫は熱病に罹り病死。浪人は黒田家家宝窃盗の嫌疑を受け拷問の上獄死した。 お綱が絶命した場所にあった門は「お綱門」と呼ばれた。

本宅の屋敷跡に長宮院が建立されるまでは「凶宅」とよばれた。下屋敷一帯(馬出)は近年まで大火に見舞われることが多く、お綱の祟りと言われていた。

明治に入り福岡城が解体された時に、「お綱門」は前述の長宮院に納められたといわれる。 その後、長宮院[1]は第二次世界大戦の空襲により焼失した。(以上 Links② より)

お綱さんの位牌は運よく被害にあわず眞光院[2]に移された。 現在でも眞光院の綱大明神の建物に安置されている。(以上 Links① より)

芭蕉翁の墓

哺川菴主の墓(左手)と芭蕉翁の墓
哺川菴主の墓(左手)と芭蕉翁の墓 
芭蕉翁の墓(拡大)
芭蕉翁の墓(拡大) 
「哺川菴主之墓」(拡大。正徳山(1713)が読み取れる)
「哺川菴主之墓」(拡大。正徳山(1713)が読み取れる) 

境内の案内板の内容を下に記す。

元禄12年(1699)、郷土の俳人哺川(きせん)[3]は博多に滞在していた松尾芭蕉の高弟向井去来(むかいきょらい)から芭蕉の辞世の句[4]を贈られました。哺川はこの好意に深く感激し、同じ芭蕉の高弟志太野坡(しだやば)に「芭蕉翁の墓」の碑名の書を依頼し、元禄13年(1700)に枯野塚を建立しました。芭蕉追慕の墓碑(句碑)としては、全国的にみて最も古い部類に属し、俳譜史上価値が高いことなどから、県の史跡に指定されています。

福岡市


参拝経路

参道口に立つ電柱(「枯野塚 20m」の表示)
参道口に立つ電柱(「枯野塚 20m」の表示) 
参道
参道 
参道口(赤丸の所に道標の看板が貼ってある電柱)
参道口(赤丸の所に道標の看板が貼ってある電柱) 

墓地境内への参道口は非常に狭い(50cm-60cm)。 民家の建物の間にある。参道も同じ幅である。非常にわかりづらい。 目印は参道口の向かい側の電柱に貼り付けてある看板「枯野塚 20m」。但し、この電柱も参道口から10mほどずれて北側に立っている。

作者は参道口がわからず、この区画を何度もさまよった。あきらめて帰ろうかと思った。 ご注意ください。


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脚注