老松神社
神道
☆☆☆
歴史
祭神は菅神・老松殿・紅梅殿。相伝として鹿嶋・香取のニ神。
社伝によれば、延喜元年(901)菅原道真が太宰府に下向する時、この地(莬道嶽[1]の麓)を通過の折、 自ら松の木を植えた。その近くに清水が湧き出る所(松ケ根の井[2])があり、その水を飲み、その側の石に座って休んだ。 この時、今宮の大宮司樋口和泉守廣續が御膳を奉った。 道真亡き(903)後、廣續に「吾さきに手つから植えたりし松を老松宮とあかめ祭るへし」との 神託があり、その松の根本に小祠を祀った。これが当社の起源である。
正暦2年(991)、小田部式部太夫平成尊が現在の地に移し、入部の庄内(南入部・寺城・小賀・柳瀬・浦江・大塚)の産神として祭った。
天正年中(1573-1593)小田部氏と江上家種との戦で荒平城に火の手が上がりその類焼にて消失。 御神体は怡土郡飯場村に避難。 文禄2年(1593)、当村の樋口平左衛門が神殿を造立。御神体をこの地に移した。
神殿の額は後醍醐天宮ママの宸翰[3]という。
寛永15年(1638)2代藩主・黒田忠之が島原の乱の戦勝祈願をし、帰陣の折に弓を奉納した。 (以上『筑前國続風土記附録』巻之39 早良郡 中 東入部村 老松天神社の項より)
社殿内の絵馬は江戸後期の銘のあるものが飾られ、鳥居は安政9年(1780)銘。
上の話は伝承だが、仮に「真」だとすれば、道真は太宰府へは小笠木峠を越え那珂郡(現那珂川市)に至りさらに梶原峠を越える宰府参詣道をたどったのかも知れない。
ひとくちメモ
境内にはクスをはじめイチョウ・ムク・ツバキ・ケヤキ・アラカシなどの巨木がみられる。 鳥居をくぐってすぐ右手の大クスの根元には地蔵菩薩像と思しき石仏が食い込んでいる。(当ページ下の「クスの根本に食い込んでいる地蔵菩薩」を参照のこと。)
写真
地蔵菩薩像がその根元に食い込んでいるクスの大木 門前の風景(右手が老松神社) 絵馬(「嘉永四辛亥(1851)十一月吉祥日」銘) - 社殿内 絵馬(「安政ニ年乙卯(1855)正月吉祥日」銘) 絵馬(「明治」銘) - 社殿内 絵馬((拡大)「明治」銘) - 社殿内 手水(巨大!) 門前の中通公民館
クスの根本に食い込んでいる地蔵菩薩
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鳥居をくぐって右手の大クスの根元に岩が食い込んでいる。 良く見れば、地蔵菩薩像のようだ。お顔は長年の風雪で削られている。 台座部分はほとんど木の根の中に食い込んでいて、表面に出ているのは台座の上の地蔵菩薩坐像部分のみ。(写真②に輪郭を赤線で囲っている。)
当尊像は、はじめクス木の根本に鎮座しており歳月が経つにつれ徐々にクスの根に取り込まれていったように思える。
当地蔵菩薩の周辺にも、岩がクスの根に食い込んだものが散見される。 これも他の石仏がクスの根に飲み込まれた痕跡かもしれない。
これから先は、作者の想像。この大クスは樹齢は200年は優に越えていると思われる。 明治の廃仏毀釈で神仏分離される時には、すでに、当尊像はある程度、根元に食い込み、取り除く事ができずにそのままにされたのではないだろうか?
このクスは地蔵菩薩と一体となった、ご利益満点の御神体ではないだろうか?
『筑前國続風土記附録』巻之39 早良郡 中 東入部村の項の挿絵・・・松ケ根の井
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右図は、正暦2年(991)に莬道嶽の麓から現在の地に遷座する前の想像図のようだ。
莬道嶽の最上部には今宮社(①)が鎮座、麓にある多くの社が老松社であろう。 門前には道真が休んだ小休処(②)・松ケ根の井(③)と思しきものが描かれている。 かなりの規模のお宮だったようだ。
門前には大きな川が描かれており、川の名が書き込まれているが判読不可。 現在ではここには、小さな用水路が流れているのみなのだが。。。。 室見川にしては距離が遠すぎる。さて、困ったものだ。
松ケ根の井は150mほど東側の場所に現存している。 脇の案内板によれば、この水は昭和の初期頃までは飲料水・酒造りに使われていたという。
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