松見山自性院
入定寺
真言宗九州教団
☆☆☆
地蔵尊像
伊藤氏参拝済
福岡市新四国霊場第8番
博多寺町コース第20番
石城三十三箇所観音霊場第18番
筑前国中三十三観音霊場第8番札所
- 住所・電話
- 〒812-0036 福岡県福岡市博多区上呉服町13-14 標高:6.8m 地図 GMAP 092-291-1604
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歴史
『筑前國続風土記』巻之4によれば、開山は圓心で、佛堂が完成したのは元和7年(1621)である。 佛堂は黒田家初代藩主黒田長政が建立した。
「入定寺」の名の由来は下記のとおりである。
圓心は、駿州[1]の出身で、17才で出家し、三州[2] 一寺の住持となる。 徳川家康が、その人となりをいたくかわいがった。 その後、別の寺の住持も務めたが、黒田長政[3]の家臣のつてで、 現在の地にあった住持もいない荒れた草庵に住むようになった。 圓心はそこで入定[4]することを長政に再三乞い、やっとの事で許可を得た。 27日間断食をし、その後入定に入り勤行を怠らず、慶長13年(1608)8月28日についに眠るように亡くなった。 入定の間、長政がその草庵に来て圓心の望みを聴くと、「自分の死後、この地に仏堂を建ててほしい」と言い、長政は その望みを聞いて仏堂を建てた。 これが、入定寺の始まりである。圓心が入定した地であることからこの寺は寺号を「入定寺」と定められた。
その後、黒田光之[5]の誕生以来、この寺では毎月武運長久の祈祷が続けられたという。
参考:入定寺あれこれ
ひとくちメモ
入定寺の裏手は御笠川である。
写真
入定寺あれこれ
当時は寺地約3000坪を有し隆盛を極めたが、現在は寺地も狭く、当時の面影さえない。隆盛時の全景図絵が本堂の壁に掛けられている。
伊藤氏メモ圓心の入定より後、黒田忠之公の命により、 太宰府の崇福寺(現在は博多区千代へ移転)から一体の地蔵尊が移され、 これを本尊とした。 重さ850kgの秘仏で、開帳は100年に一度という。 福岡県西方沖地震(2005年)の際にダメージを受けたが、 400年目に当たっていたので、修復後に開帳された。 当寺は、裏千家茶道教場としても知られる。 福岡の裏千家茶道の草分けでもある。
(「博学博多200」より)()
伊藤氏メモ入定寺開山の圓心僧都は、黒田美作一成公(黒田家の家老であり三奈木藩の初祖)の伯父、唯心院圓心である。 黒田美作一成公とは、黒田如水公の恩人の子で、如水公に引き取られて実子同様に育てられ、後に黒田姓をもらったものである(黒田24騎の一人)。三奈木藩に封ぜられたが、代々福岡城内に住み藩の大老職を務めた。
圓心僧都は駿河国の生まれ。17歳で出家し、駿河で一寺の住持であった。駿府時代の徳川家康公がこの僧都の人柄を愛して帰依し、僧都の寺を自分の祈願所にするばかりか、出陣にも僧都を同行して戦勝を祈願させていたという。
このように圓心僧都は家康公お気に入りの僧侶であったが、黒田長政公が筑前国藩主となるや僧都は家康公にお暇を願い出て、甥の黒田美作一成公を頼って西下、領地の三奈木に一両年滞在した後、博多に出てきた。
その頃、石堂川べりの現在の入定寺がある場所には無住の草庵があり、経緯は分からないが圓心僧都はここに住むようになったという。やがて、僧都は此処を自分の入定の地にしたいと思い、その旨を長政公に再三願い出たものである。
(『筑前の寺めぐり 』より)()
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