bukki 濡れ衣塚(ぬれぎぬづか) 仏教礼拝所 ☆☆☆ 伊藤氏参拝済 福岡市新四国霊場番外

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〒812-0044 福岡県福岡市博多区千代2-9   標高:6.9m MAP GMAP
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歴史

「濡衣」の言葉のいわれの一つの話である。「濡衣」のいわれはこの濡れ衣塚以外にもあるらしい。

『筑前國続風土記』によれば下記の通りである。

聖武(しょうむ)天皇の頃(724~749)佐野近世(さのちかよ)と云う人が、京より筑前の守として赴任したが、 京から連れてきた妻が亡くなった。そのため、筑前国の女性を後妻とした。 後妻が先妻の娘を殺そうとくわだて、海人[1]に金品を与え「姫君が夜な夜な私の元に来て 着物を盗んでゆきます」と嘘を云うようにしくんだ。それを聴いた父親は怒って娘の所に行ったら、 娘は濡れた衣をかぶって寝ていた。これは後妻が娘が寝入ったときに着せたものである。 父は激怒して娘を殺した。

その翌年、殺された娘が父親の夢に出てきて二首の歌を詠んだ。父親はその娘に罪が無いことをさとり 、後妻を里に返し自分は出家した。

この言い伝えにより、身に覚えのない罪を負う事を「濡れ衣」と云うようになった。

その娘の墓は、昔は聖福寺 の西門の側にあったのを、近年箱崎松原の西の橋際、博多の東、石堂川の東の側の内 に移設された。 大きな石がその印である。娘が詠んだ歌は下の二首である。

「ぬぎぎする そのたばかりの ぬれ衣は ながきなき名の ためしなりけり」

「ぬれ衣の 袖よりつたふ なみだこそ なき名をながす ためしなりけり」

福岡歴史百景』によれば、 その後近世は出家して肥前の松浦山に住み、松浦上人と呼ばれたという。 彼は、博多に普賢堂・辻の堂・石堂・奥の堂・萱堂・脇堂・瓦堂という7つの堂を建立し娘を弔ったという。

濡れ衣塚より国道3号線沿いに箱崎方面に200mほど行くと、国道3号線の反対側に 松源寺がある。このお寺の山号も「濡衣山」と言う。当霊場は同寺が管理している。

当地は福岡市新四国霊場番外となっている。 境内には康永三年銘梵字がある。別項に写真と記事を記す。

ひとくちメモ

濡れ衣塚は、御笠(みかさ)川と国道3号線にはさまれた 石堂橋(いしどうばし)のたもと近くにある。 昼夜を問わず車の騒音が激しい所である。

写真

  • 塚内風景(後は御笠川)
    塚内風景(後は御笠川) 
  • 石碑
    石碑 
  • 石堂橋から南を望む(左が国道3号線、右手が御笠川)
    石堂橋から南を望む(左が国道3号線、右手が御笠川) 
  • 石堂橋にある濡れ衣のレリーフ
    石堂橋にある濡れ衣のレリーフ 

康永三年銘梵字(こうめいさんねんめいぼんじ)

板碑
板碑 

境内の案内板の内容を下に記す。

この石碑は、 板碑(ばんぴ)とよばれる中世の石造物で、 玄武岩(げんぶがん)の自然石を用いています。高さは約165cmで、梵字が正面3箇所に太く刻まれています。 最上段は大日如来(だいにちにょらい)(バン)、右下が 宝幢如来(ほうとうにょらい)(アー)、左下が 天鼓雷音如来(てんくらいおんにょらい)(アク)を表現しています。康永3年(1344)の銘が刻まれており、 南北朝時代の板碑であることがわかります。

この、板碑は、本来は聖福寺の西門近くにあったといわれ、江戸時代に御笠川の東に移されました。 そして、現在の場所へは御笠川の河川改修工事に伴って2001年に移築されています。 (2002年3月 福岡市教育委員会)


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脚注