弘休山
香音寺
[香音禅寺]
臨済宗東福寺派
☆☆☆
行基
伊藤氏参拝済
筑前国中三十三観音霊場第14番札所
- 住所・電話
- 〒811-0324 福岡県福岡市東区大字弘1299 標高:13.6m 地図 GMAP 092-603-6404
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歴史
伊藤氏メモ寺伝によると、香音寺は聖一国師の弟子の普円国師こと潜渓処謙禅師を勧請開山に迎えて開創された。 普円国師は正和元年(1312)承天寺11世、その後東福寺、南禅寺に住したと伝えられる。
後醍醐天皇は処謙禅師を召して灌頂を受けられ普円国師の号を与えられた。普円国師の師、聖一国師は円爾弁円といい、栄西禅師に続いて日本に臨済禅を招来した人で博多の承天寺の開山である。したがって、香音寺は承天寺の末寺として開創された。
その後しばらく香音寺は記録の空白があり、延宝年間(1673-1681)に承天寺の春嶺蘭公首座が香音寺を再興した。そして元禄年間(1688-1704)に始まった筑前国中33霊場の14番札所になった。
文政8年(1825)、中興の圭林和尚が開山普円国師の500年遠忌を承天寺で修し、これを機に香音寺の本尊(伝行基菩薩作)を京都に出して修復、地蔵菩薩像、初祖の達磨像、開山の普円国師像を本堂に安置した。
もう一つ、香音寺の本堂には珍しい位牌が祀られている。それは幅15~16センチ、高さ30センチもある大きな位牌で、その表に男女2人の法名に並んで「大東亜戦水難死者之英霊 外遭難死者霊位」と大きく記され、裏面に供養の由来と施主の名、昭和20年(1945)3月と供養の日付がある。
由来とは文化9年(1812)、旧秋月藩領夜須郡江川村(現:朝倉市)の江川夫婦と同行者数名が霊場巡拝の途中、14番の香音寺から13番の光明寺(西区小田)に詣でるために、志賀島の弘から宮の浦へ小船で渡る途中、春の突風にあおられて水難死した。 亡くなった人たちの子孫の方が供養を申し出て、香音寺の先代住職が位牌を作って安置したという。一方、そのときに船を出した船頭の子孫の方も香音寺に石造の地蔵菩薩像を寄進、今も供養を続けているという。昭和の時代に入ると、志賀島は橋で結ばれ、車を利用しての巡拝が多くなった。
(Links① より)()
ひとくちメモ
志賀島の海の中道より志賀島循環線を左回りに行き、 金印公園を過ぎた漁師町の狭い路地を入ったところにある。 場所がわかりずらいので、お参りの節は地元の人に尋ねた方が良い。 コンパクトな境内には大師堂、石仏観音堂などがみられる。 この石仏観音堂には33体の観音像が安置されている。 寺のすぐ西側は弘漁港がある。
伊藤氏メモ日本地名大辞典の中に[今泉市蔵は代々漁業、運送業を営む富裕の人で、香音寺には百万遍の数珠などを寄進]とあり、 現在でも寺宝として保管されている(Links② )とのことで、期待して伺ったのですが、あいにく本堂は開けられておらず、 また別院を含めお留守のようで、願いかなわずでした。
なお、当寺から南へ1kmほどの海岸沿い・金印海道沿いに蒙古塚(蒙古軍供養塔)がありますが、 これは昭和2年(1927)に日蓮宗の僧高鍋日統の提唱により建てられたもので、 この地自体が勝立寺(天神4丁目)の飛び地境内となっています(同地説明書き)。 ()
写真
弘漁港
道沿いには福岡市漁業組合弘支所の建物があり、軽食なども楽しめる。 波止では釣り人が多数みられる。
『福岡寺院探訪』
開山普円国師。本尊の聖観世音菩薩は筑前33観音の一つで、その14番札所である。 本堂裏山一帯の地名を堂の上と呼ぶそうであるが、その急斜面の山を背にして建つ本堂は、大雨による崖崩れで、しばしば被害を受けた。明治25年(1892)全壊したのをはじめ、その10年後には庫裏が押し潰され、当時の住職夫妻が生き埋めとなったが、村人たちの救助により一命をとりとめたという。
『筑前國続風土記附録』巻之8 那珂郡 下 弘浦の項
に下記の記載がみられる。
弘休山と號す。承天寺に属す。 開基の初詳ならす。
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