仏旗 葛城地蔵大菩薩(かつらぎじぞうだいぼさつ) [生き残り地蔵・将軍地蔵大菩薩] 不詳  KATSURAGI-JIZOU-SON 博多寺町コース第19番 伊藤氏参拝済

  • 本堂
    本堂 
  • 改装前の本堂
    改装前の本堂 
住所
〒812-0036 福岡県福岡市博多区上呉服町5-147 標高:8.2m MAP GMAP  
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歴史

境内の案内板の内容をかなりの長文であるが下に記す。原文は注釈が文中に記載されているが、作者が文末に一括して記した。

葛城地蔵大菩薩の由来について

本尊は延喜年中901-923[1] 地中より発見された梵字の彫刻のある石であり、当時は浜辺の清らかな地である冷泉の津、富士見坂[2]を選び、 地蔵尊としてお祭りしたものであります。

その頃霊験あらたかなので天長9年824に開始された宝満山伏の鎮護国家の為、 葛城峰入り修行の際必ずこの地に来て法華曼荼羅の経文を読まれる霊場となり。 ここに初めて葛城地蔵尊の名を称えるに至ったのであります。

その後正和年間1312-1317に御堂が建立されましたが、 足利時代しばしば兵乱が起こり、戦災に遭い、御堂は焼失したそうですが、 寛文年間1661-1672再建されたものであります。

尚、当時の建物は本堂一棟(間口272cm奥行727cm坪数6坪)境内坪数41坪でした。 昭和の御代になり33年福岡都市計画の為道路となり現在地に御堂を建立してお移り願ったのであります。 本堂1棟(4坪)境内坪数(8坪)古文書によりますと昔から近来まで山伏の参拝は世世連綿として続き、 その後寛文年間直方黒田家の陣貝(法螺貝)役を勤めていた浦田某と言う人はその性格が過激であった為 お役御免となり、この地に来たり地蔵堂の堂宇を守りとして居住されたが、 その子武助の代に至って還俗されたので、 依って以後宝照院より奉仕することになったのであります。

推測しますと御本尊は、只梵字を彫った石であるため参拝者の信仰を得るよう本尊の前に地蔵の像を彫刻して、 安置したものであります。 又厨子の下には石の塔婆多数重なり中に五輪の塔の破片約15個、又塔婆の砕けたもの、10個ほどあって 何れも刻字浅く剥げ落ちて判然としません。

昭和34年1月24日 宝照院住職 権僧正 大岡 良道

将軍地蔵存の由来

天文の頃1532-1555早良郡荒平の城主亀井加賀守と言う人が当時博多の津に疫病が流行し甚だ灘渋している事を 出入りの商人や職人から聞いてこれを救うため熊野権現(紀伊の国和歌山県)を勧請して悪魔退散の祈祷を行ったら悪疫はやがて治まったという。 以降将軍地蔵存として合祭しているものであります。

霊験あらたかなるご利益について

昔から町内の守護神として厚い信仰を集め、先祖代々祀り受け継いでおりますこと、町内安全、 家内安全、無病息災、病魔退散、身体強健、家運隆昌、子孫繁栄等々尊いご利益があったからにほかなりません。

特にこの辺では小さな火事は希にあっても大火はなく、あの太平洋戦争でのB29の空襲の際、 100m傍まで戦火が迫ったのに無事焼け残ったのであります。 又不思議なことに昭和13年以来戦争に出征した町の男たち30名余が、一人残らず皆無事で帰還したのも特記すべき事でしょう。 近くでは、この交通戦争でも事故死した人はなく、 海外旅行に行っても皆元気に戻って参ります。 本当に有り難いご利益のお陰だと感謝の念で一杯であります。 正に別名「生き残り地蔵」とお呼びするのが相応しいのではないかと存じます。

上魚町葛城地蔵尊保存会 吉井 利雄

ひとくちメモ

作者は博多の寺町を散策する時よくこの脇の道を通るが、申し訳ないが なかなかお参りに寄らなかった。 所用で前を通り、お参りしようとすると改築されていた。

以前はお店の隣に入り口があり、町家造りの細長く暗い土間を通った先にご本尊が安置されていたが、 その土間の部分が更地となって、直接ご本尊に参拝できるようになっている。 ご本尊の位置は前のままと思われる。 建物も立派になっているが、以前の町家の雰囲気が無くなったのは残念である。

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