仏旗 大悲山 観音寺(かんのんじ) 浄土宗  KANNONJI TEMPLE 筑前国中三十三観音霊場第6番札所 石城三十三箇所観音霊場第29番 博多七観音第3番 行基 伝行基作の榧製観音像 伊藤氏参拝済

  • 入口の階段
    入口の階段 
住所・電話
〒812-0023 福岡県福岡市博多区奈良屋町10-22観音ビル 標高:9.5m MAP GMAP 092-281-0342 
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歴史

博多がめ煮 博多区・中央区編』によれば、慶長12年1607の創建で大悲山と号するという。 古来西側に隣接する西方寺の塔頭で禹弘(うこう)と呼ばれていたが、 行基作の聖観音菩薩像が安置されていることで観音寺となったという。 この観音様は博多七観音のひとつと言われる。

博多大空襲で焼失し、現在は鉄筋のビルになっている。一階が商店で二階が観音寺である。

『博多町名散歩』によると、このあたりは旧芥屋町(けやまち)と呼ばれていたという。 糸島市の漁民が魚を売りにきて仮納屋を建てていたことが町の名の由来という。

伊藤氏メモこの寺に伝わる行基作とされる観音像が、筑前33霊場の6番札所と、石城33霊場の29番札所、そして博多七観音の一つに数えられる仏様である。『石城志』によると、この観音様には次のような謂れが伝えられる。

神亀3年726、南都薬師寺の僧で渡来僧の行基菩薩が聖武天皇の勅を奉じて大宰府観世音寺に在り、近隣を行脚していた頃、博多の袖湊の南北に架かる橋が腐朽しているのを行基が知り、架け直そうとしているときに不思議な霊夢を見た。 その橋の朽ちた榧の木の橋桁の中の精気が女性の姿になって行基の夢の中に出てきたという。 そこで行基は、取り替えて廃材となったこの榧の古木で3体の観音像を造ったという。 1体はこの観音寺に祀られ、他の2体は肥前竹崎の観音寺と、佐賀明雲寺の本尊であると伝えられる。

(『筑前の寺めぐり 』より)()

参考:『筑前國続風土記拾遺』『茶の湯と筑前』

ひとくちメモ

寺前の駐車場脇には祠があり、そこに石仏が4体安置されている。 そのうち2体はかなり古いもののようである、

写真

  • 寺前の日切地蔵
    寺前の日切地蔵 
  • 山門前の看板
    山門前の看板 


『筑前國続風土記拾遺』巻之9 博多寺院(下)

観音寺

芥屋町に在。 大悲山慈眼院と号す。 浄土宗鎮西派西方寺の末寺也。 開山行譽暁遵は西方寺の法弟なり。 文禄3年1594柴藤氏檀越として此寺を開基せり。

本尊観音は行基作にて博多七観音の其一なり。 國中霊佛巡礼第6番の札所とす。 寺傳に其昔時行基此津に来り袖湊の橋を再興せんとす。 忽霊夢に應する事有て観音の像3軀を彫刻す。 是即其1なりといへり。 3軀ハ當寺及肥前國竹崎の観音寺同佐賀の明雲寺[1]等に置各本尊とす。

『茶の湯と筑前』

伊藤氏メモ茶の湯と筑前 』に下記の記事がみられる()

古渓宗陳1532-1597は、千利休とともに秀吉政権に深く関与した禅僧であり、また、利休の参禅の師でもある。 古渓は秀吉の信頼を得て、本能寺の変で倒れた信長の葬儀を執り行い、秀吉が信長供養のために建てた大徳寺総見院の院主にも起用されたが、後に秀吉の怒りに触れて博多へ配流された。博多には、古渓を得度の師と仰ぐ神屋宗湛と、利休や津田宗及を介して古渓と昵懇の島井宗室がおり、宗湛・宗室の二人は妙楽寺の塔頭大同庵を再建して古渓を迎えた。

報光寺は、後年に大同庵跡に建てられた浄土宗の寺である。 「筑前國続風土記附録・拾遺」によれば、古渓が博多を去って六十数年を経た承応3年1654、 二代藩主黒田忠之が福岡の少林寺を建て替えるとき解いた材木を使って堂宇を建立したという。 宝暦1751-1764の頃、報光寺第四世重誉は古渓の木像を刻み、境内に堂を建てて安置した。 しかし、報光寺は、昭和20年19456月の福岡大空襲によって灰燼に帰して廃寺となった。

昭和40年代になって、古渓町の住民で組織する古渓会は、戦災で焼けた古渓の木像を復活させ、最寄の浄土宗観音寺に安置した。また、古渓の命日が正月17日であることから、正月・5月及び9月の17日には観音寺に集い、その高徳を偲んでいる。

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