観音堂
仏教礼拝所
歴史
『筑前國続風土記拾遺』巻之43 志摩郡 上 玄界嶋村の項に下記の記事がみられる。
○観音堂(人家の上にあり。久泊山潮音庵の寺跡也。)
○地蔵堂(小鷹明神の後10歩斗にあり。)
『筑前國続風土記』巻の23 志摩郡の項に下記の記事がみられる。 ふりがな・段落は作者が挿入した。
○玄海島(非常の舟遥見番所山頂に在)
唐泊より東北1里許に在。 福岡よりは海上6里在。 此島は初は久島と云。 又其初は月海島と云り。 其後改て玄海島といへり。
元史に、五龍山と有は此島の事にや。 八幡愚童記に、鷹島と侍るも此島の事成べし。 島の周り1里あり。
昔は此島に民家72家有しが、永禄(1558-1570)の初つかた、 世の擾亂甚しかりし時、野島の海賊しばしば来り侵しける故に、 島の前に竹を植て防とせり。 或時海賊數10人来りて掠略す。 然に島の長榎田平次郎と云者。能防ぎ戦ひければ、 海賊共叶ひ難くや思ひけん。 竹林に火を掛てけり。 折節海風烈敷吹ければ、人家にも火移りて、平次郎も防ぐ便なく、終にそこにて討死す。 其墓今も山上に在。 海賊は心の儘に乱暴して帰ける。
是よりして島民共彌海賊の来たらん事を恐て、玄海を退て宮浦に移り居れり。 故に玄海には民家も無くて、廃墟となりし事40年許なり。
然れ共宮浦唐泊より時々渡りて佃する者もありしとかや。 斯くて四の海波風も納りて、 凶賊の憂も止りしかば、初この島に在し源三郎と云し者、 故郷を忘れあたくおもひ、其孫12歳になるを携て、慶長年中(1592-1615)爰に住ける。 其後源三郎が親族、逐年来住けるが、他民も来て村里をなす。(以下記事推敲中)
ひとくちメモ
『筑前國続風土記』の志摩郡の項にも記事あり。