壱岐神社
[壱岐宮]
神道
★☆☆
唐津街道
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- 〒819-0052 福岡県福岡市西区下山門1丁目9-3 標高:5.6m 地図 GMAP
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歴史
下に壱岐神社前の案内板の内容を記す。
『日本書紀』によれば、武内宿禰の身代わりとして亡くなった 壱岐直真根子を御祭りした社とされています。 生の松原の地名は、神功皇后が松を逆さまにさして戦勝を占った際、 その枝が生きて栄えた伝説に由来します。 現在、海岸には「逆松」の石碑と共に、逆松にそって生えたとされる松が残っています。 この辺りは古くから名所として知られ、 文明12年(1480)、連歌師宗祇(1421-1502)もこの地を訪れ歌を詠みました。
『筑前國続風土記附録』巻之40 早良郡 下 下山門村の項によれば、昔は逆松から南2町(200m)に鎮座していたが、延宝8年(1680)、青木彦四郎という人が現在の地に遷座させたとある。 最初の鎮座地は一の鳥居と現在の社殿との中間地点あたりか?
同書に「奉祀 西光寺」とある。この西光寺とは、現在は当社の西側に長垂山にある長垂寺の前身のことだろうか?
さらに同書では安永2年(1773)、福岡藩第6代藩主黒田継高が修復。 翌年、石鳥居を建てたとある。
『筑前國続風土記』巻之20 生の社の項の末尾に「此社と逆松との間に、秀吉公文禄元年(1593)朝鮮征伐の為、肥前名護屋に至り給ふ時、休ませ賜ひし茶店の址有。此神異国退治に陪従有し故、その吉例を思ひ出て、御祈願有しと云。」とある。 今となってはその茶店の跡を探すことは困難だろう。
「逆松」は壱岐神社一の鳥居の左側のすぐ東側にある。根元に石碑があるのですぐ確認できます。
ここより東約600mほどの海岸沿には、元寇防塁跡の石組が残っている。
ひとくちメモ
拝殿の両サイドに昔は馬を繋いだものと思われる縦長の石が立っている。 『筑前國続風土記』に「社殿の傍らに御馬取・御鞍石などと云石あり」とある。 この二つの石は御馬取・御鞍石なのかも知れない。
境内に手入れの行き届いた大規模な藤棚がある。 その下に、古井戸・手水鉢もみられる。 社殿の裏手にはJR筑肥線が走っている。
三の鳥居の前には駐車場があるが、これは月極のもので、参拝者用のものではないようだ。 三の鳥居前の道はかなり広いが、駐車禁止。しかも近くには参拝者用の駐車場らしきものは見当たらない。ご用心。 ここより徒歩10分程の所にJR筑肥線の下山門駅がある。
当ページの後半に逆松・参道・武内宿禰と壱岐直真根子の記事を載せています。
写真
馬繋ぎ石?(『筑前國続風土記』には「社殿の傍らに御馬取・御鞍石などと云石あり」とある。このことかも?) - 拝殿に向って左前 馬繋ぎ石?(『筑前國続風土記』には「社殿の傍らに御馬取・御鞍石などと云石あり」とある。このことかも?) - 拝殿に向って右前 藤棚(藤棚の下には手水鉢・古井戸もみられる)
逆松
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逆松は一の鳥居のすぐ東側にある。 この松の木はまわりのものと比べて一段高くその脇には花崗岩製の石碑が立っているのですぐ見つかるはずです。 松の木前は博多湾の波が洗う砂浜である。
ここからの博多湾の眺めは絶景。
『筑前國続風土記』の編者貝原益軒も「箱崎の千代松原には及ばすといへども、林中広く、白砂清潔にして風景勝れ、他邦にはまたたぐひもなき佳景也」と絶賛している。
掲示している博多湾の画像は「天気晴朗なれど波高し」の状態。 普段は波穏やかな海岸である。
参道
参道は一の鳥居から南に約350mほど続く一直線の平坦な道である。
途中、旧国道202号線を跨いだ所にニの鳥居がある。 柱は補修の為か、新しく設置されたと思われるコンクリートで囲われており、奉納年などは読み取れない。 当社の3基の鳥居の中で最古のものと思われる。 『筑前國続風土記附録』に「安永3年(1774)に福岡藩第6代藩主黒田継高が鳥居を建立した」とある。 この補修用のコンクリートを剥がせば、黒田継高の銘が現れるのかも知れない。
参道の両サイドは広大な松原が広がっている。特に、この2の鳥居から社殿までは、松原内に遊歩道が設置されており、近隣の人達の憩いの場となっている。
武内宿禰と壱岐直真根子
武内宿禰は5代の天皇に仕えたと言われ、合計すると300年生きたと言われる伝説の人物である。
『筑前國続風土記』天皇の命で武内宿禰が筑紫へ百姓の監察に遣わされた際、弟の甘美内宿禰が兄を廃そうとして天皇に讒言。 天皇は武内宿禰を殺すため使いを出したが、壱岐直真根子が身代わりとなって殺された。壱岐直真根子は武内宿禰によく似た人であった。武内宿禰は朝廷に至って天皇に弁明すると、武内宿禰と甘美内宿禰は探湯でどちらが本当のことを言っているのか占うこととなったが、武内宿禰が勝ったという。
ここで探湯とは対象となる者に、神に潔白などを誓わせた後、探湯瓮という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる。毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である、という様式もある。あらかじめ結果を神に示した上で行為を行い、その結果によって判断するもの。(Links① より)
『筑前國続風土記』ではこの事件が「探湯」の起源と云っている。
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