heritage 池田大日堂(いけだだいにちどう) [脊振山東門寺別院跡] 仏教礼拝所 ★☆☆ 背振千坊 伊藤氏参拝済 木造大日如来坐像

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〒811-1111 福岡県福岡市早良区大字脇山1393-2   標高:95.8m 地図 GMAP
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歴史

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木造大日如来坐像

この大日堂の本尊である木造大日如来坐像は、総高130.5cm、像高80.8cmをはかる(ひのき)の 寄木造です。 肉身部と衣は前面だけ漆箔(うるしはく)を施し、 背面は漆仕上げとしています。 衣文は浅い線で、全面に表されています。 仏像の頭から体部を一材で造る大胆・素朴な構造と技法は、この作者が地元の仏師であったことをうかがわせます。

脇山の地は、鎌倉時代から脊振山上宮東門寺の別院跡と密接な関係があり、 この仏像については、 天文7年(1538)に脇山・内野・小笠木の有力農民層、 脊振山東門寺とその僧侶たち、 大内氏に仕えた早良郡代などが、現世の無事と極楽往生を願って造ったものであることが、 江戸時代の地誌類に紹介されています。

この仏像は、室町時代後期この地で造られ、政治・経済・信仰を結びつける役割を担った重要な文化財です。

1999年3月 福岡市教育委員会

『筑前國続風土記拾遺』によれば、白木造りにて「彩を加へす」とあり、 漆は後世の人々によって修復時にほどこされたのであろう。

また、境内には大教坊の墓碑もある。 この僧は『拾遺』『風土記』によれば山伏として、ここに住んでいたようである。 一種の僧兵であったのか? 戦国期、龍造寺方につき、大内・小田部勢と戦って戦死。 『風土記』では、この戦いの場面が事細かに記載されている。

かなり読みづらいが墓碑の前面に「大■坊」の文字が判読できる。 『拾遺』によると碑文には俗称が刻んであったという。 どうやらこの墓碑も後世の人たちによって再建されたもののようである。

『筑前國續風土記』巻之21 早良郡 下 ○脇山郷の項に「椎原、板屋、小笠木、西村、内野、石竃、曲渕、 (およそ)八村をすべて脇山郷と云。昔背振山東門寺の別院此村にありしかば、右(上)の八村を脇山院内とも云り。」とある。 本サイトの背振千坊ゆかりのお寺には、上の八村の内このお堂しかエントリーしていないが、この地域のお寺はルーツをたどれば、まだまだ東門寺に関連する寺院があるのではなかろうか?

ひとくちメモ

脊振山の北の麓の集落の一番山手にひっそりと建っている。 その脇は池田集会所である。

入口には鳥居があり、束額には「大日尊」とある。 大日如来像は堂内の奥に安置され、その前には木の格子戸がある。 格子戸越に拝んできた。 両脇に脇侍を従え、智拳印を結ぶ金剛界大日如来である。 (上の写真は格子戸越に撮影したためあまりきれいに撮れていない)

本堂裏手の崖には、壁面を削った祠があり石仏・木仏が安置されている。

境内・堂内ともきれいに清掃され地元の方々に大切に守られていることを感じて帰ってきた。 なお、写真に写っている白いものは雪である。

伊藤氏メモ脇にある集会所に集まっておられた地元の方々のお話によると、すぐ裏の小高い山の上は池田城の跡地。ただし、現在、その形跡はなにもなく、専ら文献によるとのこと。()

写真

  • 山伏大教坊の墓
    山伏大教坊の墓 
  • 山伏大教坊の墓(裏面。「俗姓 号中納言藤原□□ 」)
    山伏大教坊の墓(裏面。「俗姓 号中納言藤原□□ 」) 
  • 本堂脇の崖に彫られた祠
    本堂脇の崖に彫られた祠 
  • 崖の祠内の文殊菩薩
    崖の祠内の文殊菩薩 
  • 崖の祠内の木仏
    崖の祠内の木仏 
  • 本堂脇の堂宇
    本堂脇の堂宇 
  • 本堂脇の堂宇内の木仏
    本堂脇の堂宇内の木仏 
  • 本堂脇の堂宇内の木仏(頭部拡大)
    本堂脇の堂宇内の木仏(頭部拡大) 
  • 大日堂内部
    大日堂内部 
  • 参道-大日堂を背にして撮影
    参道-大日堂を背にして撮影 
  • 大日堂
    大日堂 
  • 鳥居脇の灯籠
    鳥居脇の灯籠 
  • 鳥居(左の建物は池田集会所)
    鳥居(左の建物は池田集会所) 

筑前國続風土記拾遺』巻之44 早良郡中 脇山村の項

大日堂

池田に在。昔脊振山東門寺の別院ありし跡なり。(本編に出) 今小堂(方1間間)のミ残れり。 本尊大日如来の像(座長3尺許)古作也。 白木造にて彩を加へす。 躰内(たいない)に銘有。如(レ)左。

(中略)天文7年(戊)(戌)(1538)霜月8日敬白(中略)

又鰐口(径1尺2寸厚4寸5分)あり。 銘に奉寄進脊振山東門寺大日堂之御寶前天文7年(1538)6月吉日施主結城刑部丞房實敬白とあり。 境地に乙護法社(乙天童子の像を安置す。相殿虚空蔵)観音堂あり。 又山伏大教坊か墓あり。中納言藤原兼光と刻めり。俗称成へし。(其他文字後人所加誤有) 大教坊か宅地も傍に在。 其南邉に池田城址あり。(大教坊か事、本編古城記安楽平(あらひら)城の所に記せり。[1]

筑前國続風土記』巻之21 早良郡下 脇山郷の項

椎原(しいば)、板屋、小笠原(木?)、西村、脇山、内野、石龜、曲渕、(およそ)8村をすべて脇山郷と云。 昔脊振山東門寺の別院此村に在しかば、右の8村をすべて脇山別院とも云り。 會津風土記(いわく)、早川郷の内、院内村は、もと東光(門?)寺の院内の地也。 故に村の名を院内といへるがごとし。

筑前國続風土記』巻之21 早良郡下 脇山村内野村の項

(前略) 池田と云枝村在り。此所に大日堂あり。 古佛也。 大教坊と云、山伏の住せし宅の址、 大日堂の側に在り。 泉石植木等(なお)残れり。 此大教坊は、天正(1573-1593)の比の者にて、 徒薰を結び、近邉を掠め、頗る威をふるへり。 後に龍造寺隆信に輿せしが、荒平の小田部氏より攻殺さる。 巳に荒平城の所に詳也。

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