仏旗 大同庵跡(だいどうあんあと) [報光寺跡・古渓水] 浄土宗鎮西派  FORMER DAIDOU-AN TEMPLE 石城三十三箇所観音霊場第32番 伊藤氏参拝済

  • 古渓和尚之石像
    古渓和尚之石像 
  • 大同庵の石碑
    大同庵の石碑 
住所
〒812-0023 福岡県福岡市博多区奈良屋町4-25 標高:10.2m MAP GMAP  
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歴史

「大同庵」の石碑の裏に下記の記載がみられる。

大同庵は、天正16年1588京都大徳寺古渓和尚豐臣秀吉の怒りにふれ、 当地に流罪に処された時宗湛・宗室等によって建立された庵室である。

同18年、和尚帰京の後、庵は廃庵となり跡地には報光寺が建立された。

宝暦1751-1763の初め、寺内に小堂を建て大同庵を再興、 水の印を結ぶ古渓の像が安置された。

昭和20年の博多大空襲で寺と共に大同庵の小堂は焼失して、 跡地は道路や民家となった。

本年、ここに旧古渓町内の有志は、和尚の遺徳を忍び大同庵の碑を建立するに至った。 碑の表面の大同庵の字は、古渓和尚の直筆である。

平成11年9月吉日 妙楽寺従持 桂堂誌

古渓和尚が流罪にされた経緯はLinksのページ参照の事。 奇しくも、古渓和尚を流罪にした秀吉を祀る豊国神社がこの地より東側50mほどの所(現博多小学校裏)に鎮座している。 神社は宗湛(神屋宗湛)の屋敷跡という。

参考:『筑前の寺めぐり』『筑前國続風土記拾遺』

ひとくちメモ

現在、この地には古渓和尚の石像、「大同庵」の石碑の他、 「奈良屋尋常小学校・奈良屋国民学校・奈良屋小学校」の石碑、 古渓町の石碑、博多近隣古図の石碑などがある。

写真

  • 全景
    全景 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 学校跡の石碑
    学校跡の石碑 
  • 博多近隣古図(文化9年)
    博多近隣古図(文化9年) 
  • 古渓町の石碑
    古渓町の石碑 
  • 門前の風景(前方の白いビルの裏手は観音寺)
    門前の風景(前方の白いビルの裏手は観音寺) 

『筑前の寺めぐり』

伊藤氏メモ大同庵は、古渓和尚帰京の後、妙楽寺の塔頭となっていたが、やがて廃寺になった。 江戸時代に入り、この大同庵の話を伝え聞いた2代藩主の黒田忠之公が、承応3年1654福岡少林寺2世の成誉的道(じょうよてきどう)上人に大同庵の跡地を与え、一寺を建立させたのが、報光寺であると伝えられる。このような経緯から、報光寺は開基が忠之公、開山は成誉的道上人という。また、古渓和尚にちなんで大堂山古渓寺とも言った。

文化8年1811、古渓井戸の石組みが久しく壊れたままになっていたのを、博多の商人西頭(にしとう)徳蔵氏の喜捨で修復、そして妙楽寺の28世竺峰(じくほう)和尚が古渓井戸の由来を記した碑文をしたためた「古渓水」の石碑を傍らに建立した。

報光寺は、その後、昭和20年1945福岡大空襲で焼失したので、中呉服町の浄土宗寺院正定寺に合併された。

現在、大同庵跡に立つ「古渓水」の石碑は、戦後長らく妙楽寺で預かっていたが、平成10年1998に古渓和尚の400年忌と戦後55年を顕彰して、妙楽寺の渡辺桂堂住職の奔走で古渓井戸の再興・「古渓水」の石碑の妙楽寺からの移転建立・古渓和尚像の安置と現在地整備がなされた。(『筑前の寺めぐり 』より)()

『筑前國続風土記拾遺』巻之9 博多寺院(下) 報光寺の項

奈良番に在。 大堂山成善院と号す。 浄土宗鎮西派京都知恩院に属せり。 開山は成譽的道少林寺第2世なり。 此地むかし大同庵とて紫野[1]古渓和尚か結て住居せし址ありしを承應3年1654高樹公[2]成譽に賜はり當寺を建立せしめらる。 古渓は天正16年1588故有て博多に遠流せられ同18年赦免有て帰京す。 其時衆報謝の為に永く火難をまぬかれしむへしとて水印を結ひ土中に埋みぬ。 故に此四邉に今に至りて回禄[3]の災なしといへり。 當時4世重譽古渓か木像を刻み宝暦1751-1763の比寺内に堂を立て安置せり。 又観音堂 地蔵堂有。 什物に古渓真跡の手簡を蔵めり。 古渓和尚名ハ宗陳又蒲庵と号す。越前の人なり。天正元年(1573)大徳寺に出世し大慈廣照禅師の号を賜ふ。慶長2年(1597)正月17日寂す。


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