仏旗 照福山顕光院 圓應寺(えんのうじ) [円応寺] 浄土宗★★  ENNNOUJI TEMPLE 唐津街道福岡城下 舞鶴公園 大濠公園 光姫の菩提寺光姫忌写経 二川相近の墓中津城址 天蓮社眞譽見道 伊藤氏参拝済

  • 全景
    全景 
  • 本堂
    本堂 
  • 山門脇の案内「圓應寺へ御参拝の方はご自由にお入りください。10時より17時まで 執事」。櫛橋家の末裔の方の書とのこと。
    山門脇の案内「圓應寺へ御参拝の方はご自由にお入りください。10時より17時まで 執事」。櫛橋家の末裔の方の書とのこと。 
住所・電話
〒810-0074 福岡県福岡市中央区大手門3-1-7  MAP 092-761-1454
イベント情報(今日から2ヶ月間)
日時内容備考
2017-06-19
(13:30〜17:00)
簀子地区 福岡大空襲 戦災死者 71回忌 慰霊祭慰霊祭特別講演 被災者体験談など
15:30~ 直礼(希望者のみ参加費2000円)
※直礼参加ご希望の方はできましたらご一報くださいませ。
2017-07-07
(10:30〜13:00)
弁財天大祭筑前琵琶奉納、弁財天ご神体ご開帳、ミニ写経体験「散華写経」などなど
※どなたでも参加可。平服でも可。
関連寺院(※過去に関連していた寺院も含みます。必ずしも現在関連している寺院とは限りません。)
周辺の寺院
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ホームページ
浄土宗 照福山 顕光院 圓應寺

歴史

詳細は上のホームページをご覧ください。 2009年境内にあった案内板の内容がよくまとまっているので下記に引用する。

浄土宗圓應寺は慶長7年16024月、黒田如水(くろだじょすい)公 の夫人照福院殿が創立した。

当時は照福山顕光院(しょうふくざんけんこういん)と号し、京都知恩院(ちおんいん) に属す。 開基は天蓮社眞譽上人見道和尚(てんれんしゃしんよしょうにんけんうかしょう)[1]である。

照福院殿は播州志方(しかた)の城主櫛橋豊後守伊定(くしはしぶんごのかみこれさだ) の娘で天文22年1552の生まれ。永禄21年156616才で 黒田孝高(よしたか)[2]()長政(ながまさ)[3] を生んだ。戦国時代の武将の妻らしく 前半生は波乱に満ちたものだったという。

寛永4年16278月26日、75才で福岡城で亡くなり照福院殿としてこの寺にまつられた。 寺は昭和20年の戦災にあい、戦後の都市計画で墓地が道路と公園にかかったので照福院殿の墓は崇福寺[4]に移された。 寺内には昭和55年建立の供養塔がある。

墓地は冨禄武家の墓が多く、黒田節の作詞をした国学者二川相近(ふたがわすけちか)、 黒田25騎の桐山丹波守(たんばのかみ)、更には国士無双といわれた玄洋社 頭山満(とうやまみつる)翁の墓もある。

黒田藩との関係から、 孝高(よしたか)公には本尊阿弥陀如来像(快慶(かいけい)作) 長政(ながまさ)公からは月俸および白銀、 忠之(ただゆき)[5] から知行(ちぎょう)百石、 継高(つぐたか)[6] からは早良郡七隈(さわらぐんななくま)村に二万二千坪の 土地を拝領。

寺宝として弁財天一体、大黒天一体がある。弁財天は弘法大師(空海)の直作で、大黒天は 伝教大師(最澄(さいちょう))一刀三礼(いっとうさんらい)の彫刻という。

現在の本堂、納骨堂等の伽藍は昭和54年1979の建立である。

(平成4年1992 第35世 圓譽(えんよ)代)

  • 古文書中の光姫のルビ
    古文書中の光姫のルビ 

「光姫」の呼び名

圓應寺創立者 照福院の俗名「光姫」は長年「てるひめ」と呼ばれるのが通説であったという。 ところが、2013年「光姫忌」の3日前に寺に保存されていた古文書の中に「ミツ」とルビをふったものが発見された。 従って正しい呼び名は「みつひめ」である。 (作者も偶然NHKテレビで報道されたのを観た。)

右上の古文書の一部の写真は副住職より頂戴した。たしかに「ミツ」とふってある。 照福院没後約400年での新発見という。

副住職は、「長年間違った名で呼ばれていた照福院殿もやっと正しい名で呼ばれてさぞ喜んでおられるだろう」と言っておられた。


家康から拝領した短刀のこと

圓應寺には戦前までは多数の寺宝が伝えられていたという。 そのほとんどは福岡大空襲1945年6月19日-20日にて建物と共に灰燼と化したという。 (多数の寺宝については下の『筑前國続風土記拾遺』に子細に記載されている。) その中に家康から拝領した短刀があったという。

その短刀のいわれは、次の通りである。 家康が文禄の役1592-1593の時肥前名護屋に向かう途中、 北九州市八幡西区馬場山の茶屋原を通過もしくはそこに宿陣した。 その時北九州市八幡西区穴生款冬山玉章院 弘善寺の 第6代住職信譽から家康が十念を授けられた。短刀はそのお礼に家康が信譽に与えたものである。 信譽はその短刀をその弟子宏譽に(恐らく形見として)与え、宏譽はその短刀を携えこの福岡に来て圓應寺4世住職となった。

なお、信譽は北九州市八幡西区の馬場山 香徳寺も開基している。

「光姫忌(照福院殿遠忌)」

上の歴史の項にも説明があるが、光姫(照福院)は福岡藩藩祖黒田官兵衛(如水)の正室であった。 光姫の命日である8月26日に圓應寺にて「光姫忌」が毎年開催されている。 圓應寺によれば「どなた様でも参拝可(平服で可)」とのこと。 寺宝なども拝観できる。 2013年に開催された時の写真をこちらに掲示する。

筑前名所図会

浄念寺・円応寺(巻之1福岡)
浄念寺・円応寺(巻之1福岡)
『筑前名所図会』

圓應寺は『筑前國續風土記付録』巻之2 福岡上の簀子(すのこ)町の項に、 正法寺と共に説明が記載されている。 また制札場があった旨の記述も見られる[7]。 同大工町の項に浄念寺の 説明が記載されている。 これらの事から下記の位置関係が推定される。

右図は上部が北(博多湾)。下部が南(福岡城)[8]である。 中央に東西に走る道が旧唐津街道である。

その街道沿い海側に東から西に浄念寺、円応寺が並んでいる。 尚、両寺の間に雲が描かれているが、その位置に正法寺があるものと考えられる。

図の雲の位置の街道の南側には制札場らしきものが描かれている。


ひとくちメモ

福岡城跡の大手門より北側約150m、昭和通り沿いにある。 通りはかなりの交通量である。 本堂脇には藤棚がある。花の時期にはさぞ綺麗な花がみれることであろう。 山門脇には立て札。 「圓應寺へ御参拝の方はご自由にお入りください。 10時より17時まで 執事」。 お寺めぐりの人たちにはうれしいのお寺のひとつである。

2013年からは、十夜会法要と併せて、竹燈籠でライトアップされた夜の特別拝観が実施されることになった。 ろうそくの光だけの境内は幻想的な空間となっていた。 写真はこちら

写経・写仏体験に参加。 初体験である。ろうそくの灯りのみの中での写経。たまには良い。 写真はこちら

写真

  • 照福院殿(光姫)供養塔
    照福院殿(光姫)供養塔 
  • 山門
    山門 
  • 弁天堂
    弁天堂 
  • 地蔵堂
    地蔵堂 
  • 本堂の扁額
    本堂の扁額 
  • 頭山満墓碑
    頭山満墓碑 
  • 本堂
    本堂 
  • 頭山満夫妻書の法華経全十巻之内第1巻
    頭山満夫妻書の法華経全十巻之内第1巻 
  • 槍・薙刀 - 圓應寺ゆかりのお宅に伝わるもの
    槍・薙刀 - 圓應寺ゆかりのお宅に伝わるもの 
  • 巨大な木魚・鐘など - 本堂内で撮影
    巨大な木魚・鐘など - 本堂内で撮影 
  • 色鮮やかな太鼓 - 本堂内で撮影
    色鮮やかな太鼓 - 本堂内で撮影 
  • 僧侶の法衣 - 背中に墨で文字が書かれている
    僧侶の法衣 - 背中に墨で文字が書かれている 
  • 三界万霊塔(福岡大空襲で亡くなった身元のわからない遺骨などが収められているという) - 本堂に向って左手
    三界万霊塔(福岡大空襲で亡くなった身元のわからない遺骨などが収められているという) - 本堂に向って左手 
  • 相和守 - 圓應寺が授けるお守り。どうやら相思相愛同士で持ち合うもののようである。
    相和守 - 圓應寺が授けるお守り。どうやら相思相愛同士で持ち合うもののようである。 

2013年8月26日光姫忌の写真

  • 照福院殿(光姫)供養塔前での黒田二十四騎子孫母里市兵衛忠一氏の四方祓い
    照福院殿(光姫)供養塔前での黒田二十四騎子孫母里市兵衛忠一氏の四方祓い 
  • 奉納された高取焼栴檀香風鈴 - 藤棚の四方に下げられていた。
    奉納された高取焼栴檀香風鈴 - 藤棚の四方に下げられていた。 
  • 導師入場
    導師入場 
  • 法要
    法要 
  • 黒田潘伝柳生新影流(荒津会)奉修演武
    黒田潘伝柳生新影流(荒津会)奉修演武 
  • 黒田潘伝柳生新影流(荒津会)の皆さん
    黒田潘伝柳生新影流(荒津会)の皆さん 

2013年11月03日十夜会法要・特別拝観の写真

  • 参道
    参道 
  • 本堂内
    本堂内 
  • 山門
    山門 
  • 山門
    山門 

写経体験の写真

作者は会場にて写真撮影をしようと思っていたが、撮影で邪魔してはと思い断念。 下の写真は圓應寺殿より送って戴いたものです。

  • 写経体験
    写経体験 
  • 写経体験
    写経体験 
  • 写経体験
    写経体験 
  • 写経体験
    写経体験 


『筑前國続風土記拾遺』 福岡 簀子町の項

圓應寺

照福山顕光院と号す。初ハ山を顕光と号す。照福院君逝去の後今の号に改め、顕光を以て院号とす。 浄土宗鎮西派京都知恩院の末なり。 慶長7年1602如水公の夫人照福院君の菩提所として此寺を創立し、此時栗山備後利安造営の惣司たりしといふ。 圓應寺と号し、天蓮社真譽見道と云僧を、豊前國仲津より招きて開山とし給う。

見道は播州國赤穂の人にて、初同國姫路の心光寺第2世の 住事たり。 如水公封を豊前仲津に移され給ひし後に、城下に一寺を建て圓應寺と号し、見道を招きて開山とし給へり。 故に同じ寺号を用て見道を迎給ひし成へし。 如水公の御父美濃守職隆(もとたか)公棄世し給ひしを心光寺に葬奉りそ時、見道導師たりしといふ。

見道此寺に住し慶長17年16129月24日に寂す。 在世の間ハ月俸并白銀を給はりしか、 2世呈譽故有て當寺を退去せしかハ俸を除かる。 寛永3年1626高樹(忠之)公100石の寺産を寄附し賜へり。 本編今の本に寛永5年とあるハ写誤なり。古本には3年と有。照福院君御在世の時高樹公に申させ給ひしにより、 此寺領寄附し給へりといふ。 御判物左のごとし。

那珂郡住吉村百石之地を寄附。寛永3年12月7日。忠之。(原文は漢文で作者が意訳)

又、霊源公御判物に

那珂郡住吉村百石之地を寄附。宝永元年9月21日。綱政。(原文は漢文で作者が意訳)

外に寺後の海辺の地を賜はりし券文あり。 又早良郡七隈村にて山林拝領の證文あり。 又文化中0804-1818願に依中築石の事を許されし書付を蔵む。 其文長けれは爰に省きつ。

照福院君は寛永4年16278月26日逝去し寺後に御墓有。 照福院殿念譽浩栄大法尼と号す。 御霊屋に御位牌を安置せり。

此寺佛殿東西10間半南北9間半方丈庫裡 食堂備はれり。 又塔頭圓茂軒 壽慶軒2区有しか今は廃しぬ。

寛文7年當寺6世玉産仏殿を造立寺後の海邉を埋め境地を廣めなどして其功をなせり。 本尊の弥陀佛ハ安阿弥が作にて、如水公寄附し給うといふ。

鎮守社に東照神君を祝ひ奉る。 是ハ承應元年1652高樹公荒戸山に東照宮を勧請し給ふ初、此寺に假屋を構へ御神體を三旬許留め奉りし縁也。 神君尊号の懸物天海僧正筆跡高樹公御寄附神君の写真2幅あり。 束帯と甲冑の□像なり。

其戒衣の尊像は神君(家康)肥前名護屋に趣給ふ時、 遠賀郡穴生弘善寺の僧信譽放道、 同茶屋原にて十念を授け奉る圓あり。 毎年4月17日祠前に懸て諸人拝謁せしむ。 参詣の貴賎殊に多し。 神君信譽に布施物として9寸5分の佩刀無銘相州吉廣作といふ。弘善寺に傳はりしを、 此寺の4世宏譽は信譽か弟子なりければ、其短刀を附属して来て今に襲珍となれり。

寺内に春光院君光之公8男延宝6年2月6日天 清浄院君綱政公季子宝永5年2月9日天 香蓮院君継高公女寛宝元年6月18日天 香蓮院君継高公女寛宝元年6月18日天等の塔あり。 又春領院長清公側室享保3年6月9日没の墓あり。 各位牌を置、祭料を賜ハる事差あり。

また龍光公 興霊公 宗圓公職隆公 宗卜公重隆公 長壽君職隆公室の霊牌あり。 是ハ照幅院君安託し給ひし所なりといふ。

地蔵堂有。六稜の石に毎面地蔵の像を鐫れり。此石寛永中1624-1645の巽の地中より堀出せりと云。 堂内に観音の像相座なり。

鐘樓有。古鐘をかく。其銘に曰。「大日本西海路筑州堅糟村本堂薬王院再鋳洪鐘(中略)大檀那武衛将軍沙彌道鎮。 近江守平満家。勧進沙彌宗通。旹應永20年1413」とあり。 頗る奇古なり。 道鎮ハ時の探題澁川右衛門佐源満頼なり。

什宝に如水公 興雲公束帯 照福院等の肖像高樹公御寄附あり。 又霊源公御影御羽織袴御惣髪并に公の御筆画の巻軸あり。 猶國公より寄附せられし品物數多あり。 悉く録するに(いとま)あらす。

此寺初より少林寺と同く國中一派の觸頭(ふれがしら)たりしか。 本山にハ其沙汰なかりにしや。 安永3年1774願に依て永代免許のよし本山役寺の來札あり。