heritage 宗玖山 栄昌寺(えいしょうじ) 浄土宗 ☆☆☆ 行明 伊藤氏参拝済 石城三十三箇所観音霊場第23番

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〒819-0164 福岡県福岡市西区今宿町491   標高:37.8m 地図 GMAP 092-807-0671  FACEBOOK
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歴史

門前に掲げられた石製の沿革をほぼそのまま記載する。

浄土宗 宗玖山 栄昌寺沿革

天文11年(1542)櫛田神社近くの片土井町畑地2反歩[1]弱に、 末代弘法の道場に備うべく念誉行明上人庵を結び、栄昌庵と稱し開山の上人となる。

(中略。ここには念誉行明の功績が記されている。詳しくは行明ゆかりのお寺参照のこと)

弘化5年(1848)隣接の順弘庵を合併せりと古書に識す。

明治20年(1887)庵を寺號に改めるため、浄土宗管長日野霊瑞猊下(げいか)に請願してその許諾を得、 同年4月福岡区長山中立木願の趣き承知されて、 福岡縣知事 安場保和之を認証された。 時の住職玉見冏明、檀家総代永井伝吉、栗原伊三郎、吉原三平。

同43年(1910)九州沖縄八縣連合共進会が催されるに際し、 市内電車が医大前から西公園、呉服町から博多駅間敷設さる。 之に伴い現在の明治通りは拡幅されて当山も可成りの面積を割譲させられたため、 墓地まで改葬し、 古い土葬分は全て火葬に付された。

境内地狭少のため、 昭和10年(1935)、銀行より借入金で同市宝来町[2]に土地1200坪を購入。 移転する方針だったが、一部の檀家から異議が出て遂に断念するも借入金の返済は強く要請されていた。

同20年(1945)6月福博大空襲[3]により当山は本堂庫裏や貸店舗等全焼し、 墓石の大半もヒビ割れ欠落等の被害をうけた。 重要文書、什物も鳥有に歸し、 玉見冏眞住職は妻と三児の全家族、 向かい側の元十五銀行福岡支店ビル地下室に駆け込んだが、 地域の皆さんと一緒に63名そこで落命された。

そのため当山古い時代の沿革は、筑前國続風土記、福岡市史等より断片を抜粋するに留まり、その後の事蹟は 古老の証言や復興委員会議事録に拠る。 空襲の数日前、冏眞上人が可成りの包を山門近くの空井戸に降されていたのを近所の人が■見しており、 後日そこからお霊屋に祭祀されていた阿弥陀様と過去帳写しを引揚げることができた。 正に奇跡と云えよう。 その阿弥陀様は京都の著名な佛師の手により旧に復し新装なった本堂に祭られた。 菩提寺と檀家を結ぶ絆である過去帳は、新殿で厳重に保管されている。

移転復興の方針による境内売却は、戦災後もひきつづき急がれ同21年(1946)2月某社と売買契約を結び手付金を受領。 住職玉見了眞和尚高齢に加えて中風のため寺院復興の大任に当たるは困難との判断で、 福岡教区の教区長正定寺住職一田善寿上人に後任住職の推薦を依頼した。 同上人は大正大学の後輩で天草恵福寺[4]住職だった江上琢城和尚を推し、 当山総代も之を諒承し同年12月同和尚栄昌寺第27世住職に就任す。

宗務庁に境内地売却を申請していたが、 敷地内に官有地が存在していることなどの理由で却下された。 之により復興計画は根底から覆り新任の江上住職に大きな難題として立ちはだかった。 和尚は現在地復興に方針を180度転換し、 境内地売買契約を解約するため不退転の行動で打開を図り遂に手付金返戻のみで解約する約束を交した。 次に現境内地に貸店舗9軒を建て、 その入居保証金を以て仮本堂を含む全建設費と、 手付金返戻も果せる契約を某建設会社と結ぶ。 翌22年(1947)12月に総ての建物は竣工した。 宝来町土地処分費などの収入も加わり建設費を決済し手付金も返戻し、 境内地売買契約はやっと解消できた。

その間正定寺本堂で開催された檀家総会で諸件承認を得る。 昭和30年(1955)秋、総代永井次郎、前崎吉平辞任し児島善四郎再度総代に復し三島啓介新任される。 その翌年檀家総会に於て本堂庫裏を本建築で一刻も早く改築し納骨堂を新築する。 全墓石を改葬して新納骨堂に収める骨子の現地復興が再確認された。 然し復興費は総て檀家の負担に拠らざるを得ず、 それを補足する一助として借地人一人に貸地15坪を売却した。

昭和32年(1957)7月8日江上琢城上人急逝す。 同上人は、敗戦後困窮時代に焼跡から寺院再興に大きく貢献して遷化された。 そのため正定寺一田上人を後継者就任まで当山住職を兼務して頂く。 弟子の江上俊雄師が、僧階を得た34年(1959)に第29世栄昌寺住職に認証され、晋山式を厳かに執行。 以降寺院の復興と教化に専念さる。

かねて栄昌寺婦人会の復活に力を結集していた三島ツネ、児玉サチ等が中心となり、 同32年(1957)11月結成式を挙行。 三島ツネ会長に推され、事後数代の会長を経つつ着実な発展を続けている。

当寺境内地に國有地が14.05坪含まれておりその払下げを熱心に申請し、 33年(1958)無償払下げをうけ境内地は全て寺有地となった。 20年(1945)代から貸店舗の家賃値上げと、 格差是正を精力的に要請していた委員会は、10数年に及ぶ交渉奏功し、 同39年(1964)新たな契約締結に成功す。

同42年明治生命ビルに於ける檀家総会で、現在地復興が再決議されたが、 世情の急激な変転と120軒足らずの檀家で膨大な復興費を負担するのは極めて困難との議強まり、 44年7月総代会で境内地一部又は全部売却が審議され、 移転復興が主流に変わった。

前後より江上住職の兄弟子、少林寺住職國友俊雄上人は、 当山行路を照らし導かれた。 平成5年(1993)香椎長谷に移転計画を図るも、 開発に対する条件が厳しく、断念せざるを得ない苦い経験をしたが、 反面その後の交渉進展に得難い体験となった。

バブルがはじけ地価続落する眞只中11年(1999)、 住宅都市整備公団が限られた予算内で有効な業務遂行に腐心されていることを察知し、 当山は境内地を売却したい意志を強くアピールした。 売出されている多数の不動産の中から境内地が候補物件に選ばれ、 極めてむづかしい条件が幾つも提示されるも、 住職はじめ復興委員は投げ出したくなるような日々をからくも越え、 示された要件達成に必死な努力を重ねた。 み佛や先祖お加護、菩提寺復興に結束した檀家の強力で、 さしもの難事を次々と解決できた。

同年6月(1999)少林寺に於ける檀家総会で提案された復興の基本案は、全員に近い多数により承認された。 7月に墓地改葬の開眼式、貸店舗建物の解体、8月は宗務庁より境内地売却の許諾をうけ、 住都公団との売買契約を締結。 11月西区今宿町の山林4300坪余の開発許可をうけて所有者との売買契約を結び、 旧寺に祀られていた倶會一處碑を中心に空襲の刧火をくぐり抜けた各家墓の(さお)石160基を移設して供養塔となすことから緒についた。

全体の設計監理は㈱手島建築設計事務所、 建造物建築と境内地改良工事㈱福田組九州支店、内山建設㈱、 墓地改葬移設を國松石材㈱、荘厳佛具㈱あいぞの、納骨檀㈱梅谷佛具店、 植栽は㈲田主丸緑地建設などと契約し各社の惜しみなき努力で茲に竣工す。

三島啓介 識
平成14年5月吉日

福岡市の特に博多区・中央区にある寺院は、福岡大空襲・都市部の再開発でほとんどの寺院が程度の差こそあれ、上記のような被害を受けていると聞く。 その為に、栄昌寺のように郊外に移転したお寺もかなりの数に上る。

参考:『筑前國続風土記拾遺

ひとくちメモ

栄昌寺は福岡市西区の今宿の新築住宅街のはずれの小高い丘の上に伽藍を構えている。背後は山林である。 敷地・建物は最近新築されたため新しい。 境内には移転前の墓地にあったと思われるかなりの年代を経た多数の墓碑も倶會一處碑を中心に安置されている。 中には大空襲のせいか黒ずんだものも多数ある。 また、山門脇にはじゅうご地蔵尊(銃後地蔵・自由御地蔵とも云う)も安置されている。 合掌。

伊藤氏メモ山門下の当寺の由緒書。 ここまで詳細丁寧に書かれたものは初めてでした。 なお、『博多風土記』によれば、旧片土居町にあったとき、「博多市」「福岡市」論争に際しては、 博多側区民の有志多数が当寺に集合し、協議会を開催したとのことです。 ()

写真

  • 山門 - 境内より撮影
    山門 - 境内より撮影 
  • 本堂の扁額
    本堂の扁額 
  • じゆうご地蔵堂
    じゆうご地蔵堂 
  • 門前の今宿の街並
    門前の今宿の街並 

『筑前國続風土記拾遺』巻之下9 博多寺院(下)

(片土居町)榮昌庵 順弘庵

此2寺ハ相隣りて各浄土宗鎮西派那珂郡妙圓寺の末なり。 天文(1532-1555)年中念譽行明上人の開基なり。 (此行明開基の寺那珂郡須玖村無量寺 横手村正法寺 板付村通津寺 席田郡立花寺村摂取寺 筑後國御井郡藤山にて寂す。その由摂取寺に傅也。)

中世大乗寺浄土宗なりし時塔頭にて境内にあり。 高樹公[5]大乗寺を真言宗となし浄土宗の僧を住吉村に移されし時2寺ハ今の所に引しといふ。

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