heritage 法王山宝珠院 大乗寺跡(だいじょうじあと) 真言宗 ☆☆☆ 伊藤氏参拝済 博多七観音第1番 石城三十三箇所観音霊場第1番 筑前国中三十三観音霊場第1番札所 筑前国中三十三観音霊場第9番札所

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〒812-0026 福岡県福岡市博多区上川端町6-1   標高:9.2m 地図 GMAP
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歴史

境内の案内板の内容を記載する。

大乗寺は法皇山宝珠院(ほうおうざんほうじゅいん)と号して、 昔は奈良西大寺の末寺で律宗に属し、亀山上皇の勅願寺でありましたが、 のち浄土宗に転じ[1]、更に真言宗に改宗[2]、大正9年(1920)長宮院[3]と合併して、 中央区大手門一丁目[4]に移り 戦災[5]で焼失しました。

この寺跡に亀山上皇が元寇の際、西大寺の叡尊(えいそん)に命じて、博多において 敵国降伏の祈願を行わせた勅願石や、県指定文化財の地蔵菩薩の板碑、蒙古碇石(もうこいかりいし)があります。

福岡市

当寺は筑前国中三十三観音霊場では、第1番と第9番に挙げられているが、第9番は大乗寺に合併された長宮院であったようである。

筑前国中三十三観音霊場の御朱印は、博多秋月山昌林院 妙円寺または宗像屏風山 鎮国寺にて頂ける。

参考:『筑前國続風土記

ひとくちメモ

大乗寺跡は旧冷泉小学校の北側のブロック塀に寄り添うような小さな区画として保存されている。その前は冷泉公園である。

川端(かわばた)町(今の上川端商店街)の様子がよく分かる。

筑前國続風土記』に記載されている宝物(寶珠と千手観音)はいったい何処に行ったのであろうか?

伊藤氏メモ藩政時代、博多には常設の芝居小屋はなく、寺院の境内や広場に仮小屋が建てられ、 上方歌舞伎や領内の芦屋役者(遠賀)や植木役者(直方)らが来演していた。 大乗寺は境内も広く、たびたび仮小屋が建てられ、興行があり、これらはすべて大乗寺芝居と総称された。 しかし、明治も初年以降は、博多にも本格的な常設劇場が出来るところとなり、大乗寺芝居も衰退していったという。(『博多 旧町名歴史散歩 』より)()

写真

  • 写真中央が亀山上皇勅願石、右端が地蔵菩薩板碑
    写真中央が亀山上皇勅願石、右端が地蔵菩薩板碑 
  • 蒙古碇石
    蒙古碇石 
  • 亀山法王勅願石拓本(『妙円大師』より引用)
    亀山法王勅願石拓本(『妙円大師』より引用) 
  • 地蔵菩薩板碑拓本(『妙円大師』より引用)
    地蔵菩薩板碑拓本(『妙円大師』より引用) 

『お綱物語』

歴史の項の注釈で書いた『お綱物語』はどうやらつくり話のようであるが、これがその後の黒田藩2代藩主光之vs栗山大膳の黒田騒動の伏線の一つになってゆく。『福岡歴史探訪 中央区編』に詳しく書かれている。一読されてはいかが?


『筑前國続風土記』

覚永寺・大乗寺・太神宮・川端町・那珂川 解説(巻之2博多)。中洲側から東に向かって描かれたと思われる。 絵の上中央が大乗寺である。流れている川は那珂川。橋を手前に渡ると中洲となる。 図上の画面の右上に櫛田神社が鎮座しているはずである。
覚永寺・大乗寺・太神宮・川端町・那珂川 解説(巻之2博多)。中洲側から東に向かって描かれたと思われる。 絵の上中央が大乗寺である。流れている川は那珂川。橋を手前に渡ると中洲となる。 図上の画面の右上に櫛田神社が鎮座しているはずである。
『筑前名所図会』
大乗寺 - 『筑前國続風土記附録』挿絵
大乗寺 - 『筑前國続風土記附録』挿絵 

正保元年(1644)に、黒田藩主二代藩主忠之により浄土宗より真言宗に改められた。 本尊は弘法大師作の千手観音像。「日本において希なるべし」という寶珠があったという。(径一寸三分[6]

また、同書の大乗寺の記述部分には「博多の七観音」として下記のものがあるとの記述がある。

  • 大乗寺 千手観音 雲慶作
  • 妙音寺(現成就院) 正観音 雲慶作
  • 観音寺 正観音 雲慶作
  • 聖福寺 先手観音 定朝作
  • 乳峯寺 十一面観音 作者不知
  • 龍宮寺 正観音 慈覚大師作
  • 東長寺 千手観音  (同書の編者は本寺の千手観音ははっきりとは七観音の一つとは言っていない。)

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脚注