鏡智山慈眼院
大圓寺
[大佛大圓寺・大仏大円寺・大円寺]
浄土宗
☆☆☆
五重塔
菩提樹
伊藤氏参拝済
ちんちく塀の竹
厄除け不燃の大仏
- 住所・電話
- 〒810-0063 福岡県福岡市中央区唐人町3-10-9 標高:5m 地図 GMAP 092-751-5494 ホームページ
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歴史
上のホームページによれば、康平3年(1060)早良区西入部に天台宗として創建。 その後平清盛によって衰退。 文永8年(1271)聖福寺の第3祖大応国師が宋より帰朝し、 大圓寺の荒廃を嘆き臨済禅宗として復興するも戦国期の戦火により荒廃。 慶長12年(1607)頃、黒田如水公夫人の援助により荒戸山山麓に浄土宗として再建。 慶安2年(1649)荒戸山に東照宮を建立することとなり、立退き現在の地に移転。 本尊の大佛は安永5年(1776)開眼。 総高4.85m。厄除け不燃(やけず)の大仏として信仰されているという。
『福岡町名散歩 』によれば、この近辺は昔文字どおり「大円寺町」と呼ばれ、黒田藩の中級武士の屋敷町であったとのこと。
伊藤氏メモ山門を入って左手には正木昌陽の碑、寺内中庭には防塁石あり。(『福岡寺院探訪』より)()
大圓寺の山門は棟札によれば、安政6年(1859)12月に博多万行寺山門として上棟。 昭和48年、大圓寺山門として復元上棟とある。
山門脇には「第16番 圓光大師廿五霊場」と赤字で刻まれた石塔がある。 「圓光大師」とは、言わずもがな法然の事である。 ネットで検索すると「法然上人二十五霊場」はあるようである。 ただ、関西地域中心の霊場で大圓寺はエントリーされていない。 先々の宿題としよう。
山門を入って左手には「ちんちく塀の竹」がある。 石製の案内板によれば、蓬莱竹の一種。江戸期に城下の下級武士が生垣とした。 この竹を整形して弓矢の矢とし、焼いて鉄砲の火縄の材料とした。 これを内職として家族を養った人を「チンチク殿」と呼んだ。 旧大圓寺街、旧桝木屋町、地行方面に多かったが現存せずという。
『福岡寺院探訪』にある正木昌陽の碑は未確認。他の場所に移動されたのかもしれない。 防塁石は、東側の玄関の車寄せの所に極一部が展示されている。
ひとくちメモ
大圓寺は、唐人町の小高い丘の上に伽藍を構えている。その、五重塔はかなり遠くからも見え恰好の目印である。
写真
本堂(よく手入れされたアカマツが印象的) 山門 - 境内から撮影 十三重塔 - 本堂前 山門の扁額 山門脇の石塔(「圓光大師」とは法然の事) 菩提樹 - 本堂に向って左手 地蔵堂 - 山門脇 地蔵堂内部(左から水子地蔵・無縁塔・慈眼地蔵) 梵字石(色鮮やかである) 庭園(多数の鯉が泳いでいました) 元禄7銘の水盤 ちんちく塀の竹 元寇防塁の石の一部 多数の墓石 - 本堂裏手 十一面観音像 本堂床下でくつろぐ猫ちゃん
『筑前國続風土記拾遺』巻2 福岡神社佛閣 上 大圓寺町の項
大圓寺
鏡智山慈眼院と号す。(寺号を以て所在の町名とす。) 浄土宗鎮西派圓応寺の末寺なり。 開山廣蓮社乘譽源道は豊前國築城郡の人福島刑部と云者の子なり。 少し時より薙髪し圓応寺の見道か弟子たり。 慶長12年(1607)荒戸山の麓(今荒神堂の西の辺)にこの寺を建立す。 (元(源?)道ハ元和4年(1618)4月20日寂す。)
高樹公、東照宮御造立の經始有し時、 境地及白銀松樹等を賜はりて今の所に迁せり。 本尊の弥陀の大佛(座軀長8尺)あり。 此像は9世民譽か時、博多柳町の娼家近江屋平蔵といふものに需て彫刻せしむ。 昔の本尊(長2尺4寸7分)は胎中に納めり。 安永5年(1776)4月19日開眼すといふ。
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