heritage 比丘尼之碑(びくにのひ) 仏教礼拝所 ☆☆☆ 十二社宮

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〒811-1111 福岡県福岡市早良区脇山   標高:155.7m 地図 GMAP
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歴史

ここにある石碑は大正11年(1922)の5月の旱魃の折、比丘尼の墓前で雨乞いを行った所、見事に雨が降ったことに感謝の意と、併せて彼女のこの地の田畑への灌漑工事への貢献を顕彰したものである。 比丘尼之碑の裏面に記された碑文を下に記す。(段落、句読点、西暦年、ふりがなは作者が挿入、[]内は作者が補完した。)

大正11年の皐[月](さつき)[旱]魃(かんばつ)に際し前例に(なら)ヒテ、此墓前ニ雨を祈リシニ、霊験立■■(あら)ハル。 衆皆驚嘆シテ一致以テ功績ヲ長■ニ傅ヘント欲シテ(ここ)ニ建碑ノ擧ニ出ツ。

清和天皇貞観元年(659)比丘尼某ハ熊野権現ノ分霊ヲ紀州より迎ヘ十二社宮[1]を勧請シ谷口に原田上原ノ氏神トシテ齊キ祀■リ。 當時此の地方ハ田圃開キ比丘私財ヲ授ジテ興堰ヲ築キ水路ヲ左右ニ■■。 一線は谷口ニ、一線ハ原田地方へ導キ東ニ8町歩西ニ15町歩ノ水田ヲ整理シ之ニ灌漑スルヲ得テ今日ニ及ベリ。 此工事中最モ苦心努力ノ蹟を認ムルハ、西溝所謂(いわゆる)釣溝[2]ニシテ当時工事法幼稚ノ時ニ於テ山■ノ多岩壁ヲ■テ■■シ堅固ナル一條ノ水路ヲ作成セシハ偉大ナル功績に()フベシ。

此恩人ノ墳墓荒無シ功績()タ知ルモノナキニ至ランコトヲ恐レ(ここ)ニ碑ヲ建テ以テ後世ニ傅フト云フ。

大正13年4月■■ 友池 ■謹書

ひとくちメモ

石碑の前には石柱で囲われた墓碑がひっそりと立っている。 すぐ北側には送電線の鉄塔が立っている。 脇にはヒノキの大木の根本が食い込んでいる。 周辺はヒノキ・スギ林となっている。

参道口は2つある。 ①西側の県道136号線の脇と、②北側の無名の道路の脇である。 作者は①から登って行ったが、県道に面した崖の上を通り、坂の勾配もきついのでおすすめできない。 おすすめの、北側の参道口からのルートは手すり・石段などが整備されて勾配も比較的緩やかである。 目印は送電線の鉄塔であるが、②のルートからだと道なりに登れば境内にたどり着ける。 参道・境内共人気(ひとけ)は無いので単独行を避けるべき。

写真

  • 比丘尼之碑(裏面。びっしりと碑文が刻まれている)
    比丘尼之碑(裏面。びっしりと碑文が刻まれている) 
  • 比丘尼之碑
    比丘尼之碑 
  • 比丘尼の墓所
    比丘尼の墓所 
  • 比丘尼の墓碑
    比丘尼の墓碑 
  • 比丘尼の墓所 - 裏手より撮影
    比丘尼の墓所 - 裏手より撮影 
  • 手水鉢
    手水鉢 
  • 墓所脇のヒノキの大木の根
    墓所脇のヒノキの大木の根 
  • 境内南側の送電線鉄塔の根本
    境内南側の送電線鉄塔の根本 
  • 参道の石段・石垣 - 北側からのルートの途中
    参道の石段・石垣 - 北側からのルートの途中 
  • 参道の石段 - 北側からのルートの途中
    参道の石段 - 北側からのルートの途中 
  • 北側の参道口
    北側の参道口 
  • 西側の参道口(右手の道は県道136号線)
    西側の参道口(右手の道は県道136号線) 

吊溝

吊溝(写真左手に椎原川が流れている) - 下流に向かって撮影
吊溝(写真左手に椎原川が流れている) - 下流に向かって撮影 
吊溝(写真右手に椎原川) - 上流に向かって撮影
吊溝(写真右手に椎原川) - 上流に向かって撮影 
県道136号線から吊溝に向かう途中の民家の中の小堂
県道136号線から吊溝に向かう途中の民家の中の小堂 

吊溝には清流が流れている。現在、吊溝はコンクリート等で補強されてはいるが、今でも重要な灌漑装置となっているようである。


十二社宮

本殿
本殿 
境内風景(ヒノキの巨木が多数みられる) - 拝殿を瀬にして撮影
境内風景(ヒノキの巨木が多数みられる) - 拝殿を瀬にして撮影 
境内風景 - 左手は拝殿
境内風景 - 左手は拝殿 
石灯籠
石灯籠 
手水舎
手水舎 
境内風景 - 鳥居を背にして撮影
境内風景 - 鳥居を背にして撮影 
石塔
石塔 
参道 - 鳥居を背にして撮影
参道 - 鳥居を背にして撮影 
鳥居
鳥居 
石門
石門 
脇山郷(西側) - 境内より撮影
脇山郷(西側) - 境内より撮影 
脇山郷(北側) - 境内より撮影
脇山郷(北側) - 境内より撮影 
脇山郷(南側) - 境内より撮影
脇山郷(南側) - 境内より撮影 
  • 石段 - 参道口より撮影
    石段 - 参道口より撮影 
  • 当社は横山神社の前身ではないかと思われる。 『筑前國続風土記附録』巻之39 早良郡 中 脇山村の項に以下の記事がみられる。

    十二社権現社(タニグチ 神殿1間1間半・拝殿2間3間・祭禮9月9日・奉祀平山讃岐)

    祭る所の神12座、諏訪明神・鹿嶋明神・三嶋明神・厳島明神・大社大神・八幡大神・住吉大神・淀姫大神・高良明神・龍王之神・志賀明神・熊野権現なり。

    谷口及び西村の内、上原・原田・寺地すべて4所の産神也。

    里人の言く、昔紀州熊野より壹人の比丘尼来りて此村に住めるか、本居の神を勧請せり。此比丘尼西村の内に釣堰・樋井出を儲け、田地滋潤の功をなして此地に終れる故に、其霊をも此に崇め祭れりとそ。

    横山神社の案内板によれば、「天授元年(1375)背振戦争の兵火等で焼失,慶長4年(1599)小早川秀秋の時,神領もことごとく没収,神社は消滅状態となった。」とある。当社は一旦現横山神社に遷座して、その後この地で復興・再建されたものと思われる。

    長い石段って境内に入る。石門・鳥居は近年建てられたもののようだ。 広い境内には多数のヒノキの巨木がみられる。 鳥居の前からの脇山郷の田園風景はなかなかのものである。


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