heritage 浅家地蔵尊(あさけじぞうそん) 仏教礼拝所 ☆☆☆ 伊藤氏参拝済 福岡市新四国霊場第44番

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〒812-0044 福岡県福岡市博多区千代1丁目15   標高:6.7m 地図 GMAP
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歴史

御堂内の最奥手の祭壇には浅家地蔵菩薩・浅野家地蔵菩薩・百間地蔵菩薩の3地蔵尊が祀られている。 他にも多数の石仏・石塔が祀られている。

藩政期、この付近は砂浜に松林が点在した広大な土地であった。 福岡藩はこの地に100間(≒184m)に及ぶ矢来(やらい)[1]で囲み、処刑場としていた。

後世にこの地区に移り住んだ人達が整地に耕すごとに出てくる石を知らずして漬物石や踏石としたところ 次々に起きる家族の不幸に「曰く因縁の成せる業」と信じて置石を持ち寄り「お塚さま」と呼んで一堂に祈るようになった。

昭和8年(1933)7月に至り、付近の人に浅家先祖の霊の告げるところがあり町有志による地蔵堂建設の運びとなり 毎月23日法要が行われるようになった。(以上 御堂前の木製の案内板より)

昭和63年(1988)3月、不審火によって全焼。幸い安置されていた仏像は無事。その後再建された。(御堂内に掲示された「浅家地蔵尊を守る会」による掲示より)

福岡市新四国霊場第44番(本尊:浅家地蔵)となっている[2]

当霊場の読み「あさけじぞうそん」は作者が勝手に振ったもの。誤っていれば訂正します。

ひとくちメモ

御堂内にはメインの3地蔵菩薩の他、多数の石仏・石塔が祀られている。 この周辺は昔ながらの風情がまだ少し残っている。

写真

  • 一番奥の祭壇(左より百間地蔵・浅家地蔵・浅野地蔵)
    一番奥の祭壇(左より百間地蔵・浅家地蔵・浅野地蔵) 
  • 浅野地蔵(拡大)
    浅野地蔵(拡大) 
  • 祭壇に向かって左手の石仏群
    祭壇に向かって左手の石仏群 
  • 浅家地蔵(拡大)
    浅家地蔵(拡大) 
  • 百間地蔵(拡大)
    百間地蔵(拡大) 
  • 祭壇に向かって左手の石仏群
    祭壇に向かって左手の石仏群 
  • 金毘羅大権現石碑
    金毘羅大権現石碑 
  • 石祠
    石祠 
  • 地蔵堂の扁額
    地蔵堂の扁額 
  • 百度石
    百度石 
  • 地蔵堂前の題目塔
    地蔵堂前の題目塔 
  • 地蔵堂(福岡新四国霊場の霊場碑が見える) - 正面より撮影
    地蔵堂(福岡新四国霊場の霊場碑が見える) - 正面より撮影 
  • 地蔵堂前の風景(左手が地蔵堂)
    地蔵堂前の風景(左手が地蔵堂) 

御堂前の木製の案内板

由来が書かれた案内板(風雪により判読が難しい)
由来が書かれた案内板(風雪により判読が難しい) 

浅家地蔵について

1.浅家地蔵菩薩
黒田藩に謀殺された中津浅野藩主とその家臣11人の霊
1.浅野家地蔵菩薩
浅家懺滅と黒田騒動のお綱惨殺[3]に働きのちに讒訴,処刑された藩士浅野彦五郎の霊
1.百間地蔵菩薩
藩政に反抗して処刑された人々の霊

ここ千代一丁目一区、二区は旧町名を西宝来町東宝来町真砂町といった。 旧黒田藩時代は砂浜に松林の点在した広大な土地で緑深く狐や狸が出没し、お寺の敷地や桑畑野菜畑が広がっていた。

またこの地を別名百間矢来とも呼んだ。藩はこの広場を百間(184米)に及ぶ矢来(竹の柵)で囲み馬場としたが旧柳町[4]にあった処刑場では足らず、この広場でも罪人を処刑したと伝えられている。

当時、朝倉地方に起きた百姓一揆の首謀者やその家族などこの地で悲運な生涯を閉じた人達の冥福を祈って先代の人々は置石を墓標として懇ろに葬って来た。

後世にこの地区に移り住んだ人達が整地に耕すごとに出てくる石を知らずして漬物石や踏石としたところ次々に起きる家族の不幸に「曰く因縁の成せる業」と信じて置石を持ち寄り「お塚さま」と呼んで一堂に祈るようになった。

集まった仏体は16体余り、その他数多くの大小の置石がいまもお堂の床下に祀られている。

昭和8年7月に至り、付近の人に浅家先祖の霊の告げるところがあり町有志による地蔵堂建設の運びとなり毎月23日法要が行われるようになった。

以上の由来をもって、この地蔵堂にはこの地ゆかりの頭書の地蔵尊が祀られている。 毎月23日法要が行われるようになった。地域住民の心優しい人々の守りの神(仏)として信仰する人々の数は多い。

別に移転による詳しい由来記あり

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脚注