有田宝満神社
神道
☆☆☆
伊藤氏参拝済
歴史
祭神は玉依姫命・彦火火出見尊・鸕鶿草葺不合尊。
社伝では、由緒ははっきりしないが、当地は往昔は田部郷に属し小田部の枝村であったので同所の宝満宮を分社勧請したとも伝わる。
明治5年(1872)、村社に定められる。(以上 社殿前の案内板より)
当社境内の東側の端に義民 松尾庄屋の石碑(大正5年(1916)銘)が立っている。 その脇の案内板の内容を下に記す。
お日待ち(義民 松尾庄屋の碑)
享保年間(1716-1736)五穀稔らず悪病流行して郷民は窮乏の極に達した。 庄屋松尾孫三良は日夜心を砕いて救済策を講じたが効力なく郷民の苦を見るに忍びず、死を決して法度の厳禁されていた減租の嘆願を行った。
藩庁に召喚されている間、郷民は氏神の境内に集まり夜を徹して庄屋の罪の軽いことを祈った。
例のない直訴を受けた城中では「庄屋は打首、組がしら(副庄屋各)は田畑取り上げの上、所払い。百姓は過料」が大半の意見であった。藩主黒田継高公(1703-1775。6代藩主)は、天下のご法度を犯した死罪を覚悟し百姓を守ろうとする名庄屋の気骨に感服し、「無罪放免そして年60俵の年貢米の免除を言い渡す」の一声であった。
その後、庄屋の志を無にするなと9月28日を祭りの日と定め宝満遇の神威ともども子々孫々まで当時の思い出を伝えた。これが250年も超す伝統をもつ有田のお日待ちである。
当日は祭壇を飾り、夕刻には氏子たちが宝満宮に集まり神主が由来をのべて祝詞をあげる。 一晩中灯明を消さないで庄屋の安否を気づかった当時の郷民の心情を偲んで一夜を明かす。(石碑裏面の松口栄太氏 詩文より)
参考:『筑前國続風土記附録』
ひとくちメモ
社殿前には、鰐口が提げられている。お宮の社殿に鰐口。珍しい。 『筑前國続風土記附録』巻之40 早良郡 下 有田村の宝満宮の項に、社内に観音堂があった旨の記事がある。 この鰐口はその観音堂ゆかりのものかもしれない。
神殿は白壁造り。これも珍しい。
御堂の西側に南北に通る道は月城通りと呼ばれる。
写真
月城通り
松口月城(本名:栄太)(1887-1981)。医師・漢詩家・南画・諸堂など多彩な才能で多くの人々に愛された。
14才の月城はこの道を通り西公園まで歩いて英語の塾に通い、帰りに漢学の塾で漢文を勉強。夜は独学で基礎医学を学び、18才で当時の日本最若年で医師の資格を取得した。 地元を無医村にしないため19才で開業医となる。この道沿いに松口医院があった。 多忙な診療の傍ら、地域活動にも貢献。西福岡中学校・早良高等学校(現講倫館高校)の設立にも尽力した。 (以上 有田宝満神社境内の案内板より)
上の「義民 松尾庄屋の碑」の裏面の詩文も月城によるものである。
『筑前國続風土記附録』巻之40 早良郡下 有田村の項
寶満宮(神殿3間・社拝殿2間3間・祭礼9月19日・奉祀小方監持)
村の南にあり。産神也。玉依姫命・彦火々出見尊・鸕鶿草葺不合尊を祭れり。 或玉依姫命・神功皇后・応神天皇を祭るともいふ。
社内に観音堂あり。
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