荒平武士供養堂
史跡
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歴史
荒平城は油山の一支山である荒平山(392m)にあり、豊後の戦国大名大友氏の配下にあった小田部鎮元が、天文22年-天正7年(1553-1579)の間、居城とした。 山頂を本丸(方30間)、その下の尾根部分を二の丸(方15間)とする。(Links① より)
天正8年(1580)、三瀬峠を越えて侵攻してきた肥前龍造隆信配下の軍勢[1]に攻められ、小田部勢はよく抗戦したが、家臣の大教坊兼光[2]が池田城で龍造寺軍に寝返る。この状況に対し小田部勢は荒平城に長期籠城体制に入った。 その後兵糧が尽き、小田部勢は下城して戦ったが、鎮元と嫡男九郎は力尽き討ち死にした。(Links② ・『筑前國続風土記』巻の28 古戦場|荒平城跡より)
同主様のお話によれば、ご祖母様からの話として、この周辺は上の戦いの激戦地で、戦士した武将達を供養する為に御堂は建てられたという。
ひとくちメモ
御堂のある場所は東側は荒平城址のある荒平山・油山山系、西側には三瀬峠につらなる雷山山系に挟まれた平野だ。のどかな田園風景が広がっている。 すぐ西側には室見川が流れている。
御堂内には3体の石塔が祀られており、左側の石塔の後ろに「屋敷四十三人霊」、右側の石塔の後ろに「荒平四人武士霊」の木札が添えられている。 御堂の隣には堂主様のご祖母様が植えられたという藤棚がある。
2023-01-10、周辺の風景を見ながらこの周辺を歩いていてこの御堂を偶然発見。 私有地かどうかわからなかったが、扉を開けて参拝していると、隣の建物の中から堂主様が出てこられ、 寒い中、丁寧に御堂の歴史について話をしていただいた。感謝感謝。 最近は参拝者も無く、作者は久しぶりの参拝者だったとの由。 参拝する場合は御堂の隣のお宅の堂主様に一言声をかけたほうがベター。
写真
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