heritage 假屋阿弥陀堂(かりやあみだどう) [仮屋阿弥陀堂] 仏教礼拝所 ☆☆☆ 福博八十八ヶ所第72番札所

住所・電話
〒812-0033 福岡県福岡市博多区大博町11   標高:5.9m 地図 GMAP
検索
同地区同宗派(21)  ( 4km以内 ) MAP  周辺のスポット(18)

歴史

当阿弥陀堂の縁起等は不詳。分かり次第追記します。

当阿弥陀堂は福博八十八ヶ所72番札所(本尊:阿弥陀如来)となっている。

明治のはじめ頃まではこのあたりは「假屋」と呼ばれていたようだ。 詳しくは「先祖小金氏の碑」参照のこと。

ひとくちメモ

阿弥陀堂は白黒を基調としたオシャレなデザインである。 阿弥陀堂内の阿弥陀如来はおそらく、御影石製で、像高は140cm前後か?

周辺は近代的なマンションに囲まれている。

写真

  • 阿弥陀如来
    阿弥陀如来 
  • 祭壇
    祭壇 
  • 遠景(阿弥陀堂は写真中央)
    遠景(阿弥陀堂は写真中央) 
  • 霊場碑(「福博八十八 第七十二番」)
    霊場碑(「福博八十八 第七十二番」) 
  • 阿弥陀堂前の風景 - 御堂を背にして撮影
    阿弥陀堂前の風景 - 御堂を背にして撮影 

「先祖小金氏の碑」

「先祖小金氏の碑」 - 阿弥陀堂に向かって右手
「先祖小金氏の碑」 - 阿弥陀堂に向かって右手 
「先祖小金氏の碑」(裏面)
「先祖小金氏の碑」(裏面) 
「先祖小金氏の碑」脇の案内板
「先祖小金氏の碑」脇の案内板 

阿弥陀堂に向かって右手には、立派な「先祖小金氏の碑」が建っている。 その脇には案内板が設置されている。

案内板によれば、この地は昔は「假屋」と呼ばれ、「博多津外」であったが、明治維新後、戸籍編成の為、明治5年(1872)正月に博多に編入され、同11年「小金町」と改称された(その後現在の大博町に編入された)。

この石碑と案内板はこの「假屋」「小金町」の地名の由来について説明しているようだ。

作者の貧弱な読解力で要約すると誤りがあっては困るので、以下に文字起こしをする。少し長文だが興味のある方はご覧ください。段落・小文字の西暦は作者が挿入した。

小金町先祖之由来

小金町ハ従前假屋(カリヤ)ト号シ、博多津外ナリシヲ、維新後、戸籍編成ニヨリ、明治5年壬申正月、博多に編入セラレ、尓後(シカルノチ)仝11年小金町ト改称ス。

(ケダ)シ該所今ノ部落ヲナセシ事、明和(1764-1772)年中編輯(ヘンシュウ)石城志所載ニヨレバ慶長元和(1596-1624)ノ際ニ起リ、(ソノ)祖先タル(かつ) テ博多人ノ犠牲ニ死セシ日向ノ浪人ニシテ、古来博多ノ口碑ニ傅フ処又仝一ナレバ、(ココ)ニ石城志中小金町ノ事蹟ヲ妙出(ミョウシュツ)シ、併テ当初ヨリ漸時(ザンジ)発展増殖セシ最近ノ人員戸数ヲ出ス左ノ如シ。

石城志歳時考中枩囃子ノ記事

前略其頃は正月7日にて筥崎八幡宮へうち連れ詣ける。

然るに慶長4年(1599)正月名嶋中納言秀秋卿[1]より肥後の国主加藤氏へ年賀のシ者をさし越されしに、此日枩原(まつばら)にて枩はやし恵比寿流(当番中間町)の者ともに行あひしが、 いかなる故にや口論に及び、名嶋の士を馬より引落して(つい)にうち殺しけり。

(これ)によって中納言殿より喧嘩(けんか)の相手を出すべきよし(しき)りに催促ありしかば、解死人(げしにん)を出すべきよし評議一決せり。

然るに対馬小路に日向浪人[2]来り住しけるが、常に津中の情によりて露命をつなぎけるが、今此恩(いまこのおん)(ほう)ぜずんばいづれの時を期すべきとて、一人の老婆ありけるを津中の者へ頼み置て、其身(そのみ)はすゝんで解死人となり、筥崎枩原におゐて(ちゅう)せれれけり。

一説にかの浪人子供7人[3]あるけるが立丁浜に假屋をしつらひて(いく)みけり。今の七ツ假屋是也云。(石碑のウラ面と同文)

尚、馬上の恵比寿様も落馬しその際に破損した恵比寿面(男面)が門外不出として実在す。

明治45年1月改小金町戸数人員
一 戸数 70戸
一 人員 367人
    但し、男168人 女199人

 大正元年(1912)10月 79翁 山崎宗雄


周辺のスポット(4km以内)

周辺の寺院・仏教施設・他のページは当ページの上部の検索の項の「4km以内」のボタンをご利用下さい。

脚注